夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

第2の波では組織、第3の波では個人が主体に

あるある大事典」が唯一のスポンサー「花王」の降板の決定により10年間の歴史に幕を閉じることになりそうだ。そこには、テレビに対する視聴者の冷静な目がある。今まで、スポンサーの顔をうかがっていたテレビ局もさすがに視聴者の批判には耐え切れなかったのだ。

 しかし、今までのテレビと何が違ってきたか。それは視聴者が受動的な態度であったのが、テレビ局に対する厳しい目を持ち始め、能動的になりつつあるということだ。しかし、他のテレビ局はニュースとして取り上げていても、根本的な問題、つまり前項まで述べてきたようなテレビ局と制作会社との劣悪な関係には触れようともしていない。テレビは、メディアの中では比較的新しいメディアなのだが、その中身は、他のメディアや企業の旧体制となんら変わっていないのである。それは電波というお上から授けられた免許に守られているからだ。

 さて、僕は「革命前夜」でアルビン・トフラーの「富の未来」をとりあげ、第二の波(産業革命)から、第三の波(知識革命)に変わりつつあると論じた。それは同時に、大量生産・大量消費の企業組織主体の価値観から、それぞれの消費者にあった知識を持つ個人の力が主体になるということなのではないか。たとえば、テレビのコンテンツというものも、もともとは作家の知識が大本になっている。インターネットのブログなどは、今まで物言わぬ大量生産品の消費者たちが一斉にしゃべりだしたということもできる。つまり、しゃべる消費者の出現である。メーカーとしては、これら消費者の言葉は無視できない力となる。

 そうなると、現在のテレビのありようも変化せざるを得ない。テレビ局はより良質の知識(コンテンツ)を持つ人間を集めなければ、インターネットに対抗できないからだ。まだ、テレビ局は自分たちは番組のプロであるという、おかしな自信を持っている。だが、制作会社がなければ番組制作はできない。その制作会社は何を考えているのか。テレビしかなかった時代、制作会社はテレビ局の電波管理の下で、唯々諾々と働かざるを得なかった。インターネットでは、その鉄鎖は取り払われる。

 今、テレビ局は気がつかなければならない。どこの局でも同じような番組しかなかったから、どんどん視聴率は落ちていったのだ。その原因は、結局彼らの目が視聴者に向かなかったことを表している。テレビの未来は暗黒か、光り輝くか、それはわからない。ただ、少なくとも今までの彼らの経験は役に立たないことだけははっきりしている。

 金は会社が持っているが、知識は個人が持っている。その知識を集め、有意義な番組を作ったもののみに未来が開かれている。
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