夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

平和だから命が軽い

 前項「守るべきなのは自分の地位ではない」のコメントを書いて思ったことがある。なぜ「命を守る」の優先順位が後なのはなぜか。それは平和だからだと。

 普通、このタイトルは逆だろうと思う。戦争状態では、いつ殺されるかわからない。緊張感を強いられる。しかも、毎日のように何百人もの市民が死んでいるのである。だが、こういうときこそ命の重みを知るのではないだろうか。

 平和になると、メディアが発達する。戦争状態では考えられなかった情報がいとも簡単に手に入る。メディア、特にテレビの情報がこの命の軽さを演出している。

 テレビが入ってきた当初、たとえば映画「ALLWAYS三丁目の夕日」を思えばわかるが、近所の人たちが集まってプロレス中継などを見たり、アメリカのホームドラマの豊かな日常生活をうらやんだりした。日本もアメリカのようになろうと高度経済成長路線をまっしぐらにすすんだ。「テレビの魔力」に書いたように、まさにテレビは夢の機械dream machineだったのだ。

 それがいつしか、世界中のありとあらゆる不幸や事故、惨劇を報道する機械「パンドラの匣」となってしまった。もし「あるある」のように有益な情報でなくて害毒を流すだけならこれは『公害』と同じである。(もちろん、テレビは『公害』を生み出すために作られたわけではない)

 メディアの特質の一つは人と人をつなぐというものである。今のケータイ文化を考えればわかるが、人間はいつも誰かとつながっていたいという本能がある。ところが、一方でテレビは「パンドラの匣」になり、不安を撒き散らす。つまり、ケータイで安心を求めながら、テレビで社会や他人に対する不安を増大させる。

 メディアの発達が家族や地域のコミュニティを破壊し、自分にとって都合のよい人間のコミュニティのみが生き残った社会、それが現代日本なのである。

 このような社会では、人間と人間が直接つながらず、間にメディアが必ずはさまっている。そうなると相手と痛みを共有する必要はない。しかも死を遠ざけながら、日常的に死の報道がなされている。そうなるとどうなるか。

 僕は子どもたちの間で「人は死んでも生き返る?」と信じられている事を聞いて、こんな文章を書いた。

いじめがたびたび自殺まで行ってしまうのは、いじめる側もいじめられる側も「死」への重みを軽く考えてしまう傾向があるのではないか。どれほどテレビで「死」の恐怖をとりあげれば取り上げるほど、現実感がなくなり、返って「死」が近くなり、こうすればすぐに楽に成れるのかと思うのではないか。

「死」が軽いということは、「生」に対しても執着心がないということである。「死にたくない」とか「長生きしたい」とか言うのは、彼らにとってひどく無様に映るに違いない。それだったら、死んでやり直したほうがいいと考えるのであろう。

改めて思う。生きるとはなんだったのか、死とは?と
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