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素人だから言えることもある

監視されることは信頼されないこと

 前項「不二家は安全宣言が出た、テレビはいつ?」でテレビの監視機関が不可能に近い点を述べた。ある意味、視聴者全員が疑いの目を持って監視するということになる。

 さて、監視しているから安全か?そんなことはない。僕は、「完璧な監視などありえない」という過去のブログでこんなことを書いた。

監視すれば安全が得られるというのは自己矛盾だ。なぜなら、監視の元にあるのは人間不信であるからだ。完璧な監視とは、完璧な人間不信ということになる。これでは自分の部屋から出られない。まさにひきこもり状態となる。

 安全とは、あくまで人間と人間の間に友好関係を築いていったときに初めて達成されるものである。監視システムでそれを済ますことは不可能である。その監視システムもまた人間が作ったものだからだ。

 監視する=安全というのは、結局、人間に対する信頼によって成り立っている。したがって、人間に対する信頼がない人間(不信)に対して監視システムは効果を果たさない。つまり、そのシステムに対して恐れる人間(=システムを信頼している)に対してのみ効果が発揮されるだけである。

 すなわち、監視している最中は、信頼は生まれない。監視が解けたとき、初めて信頼が生まれるのである。

 ひるがえって現代社会を見てみよう。不審者を監視することは不可能だ。誰が不審者かわからないからだ。そこで子供にGPSを持たせることになる。

これも過去のブログ、「子供監視社会」で僕はこう書いた。

監視とは不信の裏返しである。徹底した監視は結局、人間関係を阻害し、本来必要な他人とのコミュニケーションが築けない。したがって地域のコミュニティを築くことで健全なコミュニケーションを育てるのが肝要である。

(中略)

現代社会は、見えない不審者におろおろする親子に似ている。メディアは不安をあおるだけあおり、結局親子に安心感を与えられず孤独への道を追い立てているように見えてならない。

 子供にGPSを持たせる行為は、子供を信頼してないことと同じである。確かに、不安な世の中である。子供の居場所をいつも知りたいと思うのは親の愛情だろう。だが、子供の身になって考えればどうなるだろう。いつも監視されているような気がしているのではないだろうか。そのことが、かえって悪の道に追いやる結果になるかもしれない。親から信頼されないことほど悲しいことはないのだから。
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