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素人だから言えることもある

阿久悠と山口百恵

 作詞家の阿久悠氏が70歳で亡くなった。尿管がんが原因だったという。追悼番組がどこの局でも行われた。5千曲とも6千曲とも言われる歌の数々は当時のほとんどの歌手が歌っていることを意味する。しかし、なぜか山口百恵の歌っているビデオが登場しなかった。まさか、ヒットしなかったから出さなかったのでは、とか山口百恵のほうから拒否したとか妄想したが、よく考えれば阿久悠氏は山口百恵の曲を一曲も書いていなかった。

 ところで、山口百恵といえば、日本テレビの「スター誕生」で、森昌子・桜田淳子と並んで花の中三トリオとして有名だった。この「スター誕生」は阿久悠氏が企画の段階から番組に参加している。事実上、番組の骨格を作ったのは阿久悠氏である。それなのに、一曲も無いなんてと思うのだが、実は阿久悠氏が書いた本「夢を食った男たち」(毎日新聞社)にこんな文章があった。

 山口百恵は、あれほどまでに騒がれ、評価され、神話を生み、大人の仕事の達人までも信者にし、まさに時代を作ったにも関わらず、歌手としては無冠であった。そして、無冠のまま、結婚、引退した。

 はるかに後輩の中森明菜が、楽々とレコード大賞を連続受賞したのとは対照的で、不運な巡り合わせとか、不思議な力が働いて、今一歩賞には届かなかった。

 巡り合わせだけなら、力学がねじ伏せることもできるだろうし、力学だけなら、巡り合わせの妙で力を殺ぐこともできただろうが、彼女の場合、いつもその二つが重なっていたように思えるのである。

 山口百恵が、レコード大賞その他の音楽賞を狙える位置にいた時、常にその対極にあって、彼女の受賞を阻んでいたのが、皮肉なことにぼくであった。

 別にそのような立場を選んだわけでも、意図したわけでもないが、結果的にはそうなった。このような構図は彼女だけではなく、五木ひろしにも言われた。いつも阿久悠に邪魔されたと・・・・。

 ぼくは、レコード大賞を五回受賞している。そのうち三回、「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」は、1976年、1977年、1978年の三年連続で、この間、山口百恵の「横須賀ストーリー」「イミテーション・ゴールド」「秋桜(コスモス)」などとぶつかったのである。

 このように山口百恵が、賞の巡り会わせが悪かったが、「スター誕生」のデビューが桜田淳子の後だったことも、スタッフにとってももうひとつだったのだという。
 後になって、彼女の書いたものを読むと、ある審査員から、ドラマの妹役ならなれると言われたと、それは、ひどく自負心を傷つけたものであるように書かれていたが、ある審査員とぼかすまでもなく、阿久悠である。

 弁解するつもりも、不明を恥じるつもりもないが、あの時では、あれでも最大の褒め言葉であった。

 妹役程度の女優にしかなれないという意味ではなく、妹役なら、何の努力もなく、この場からドラマのスタジオに連れて行っても、すぐに存在を示せるという評だったのである。何しろ、その時の番組は、桜田淳子フィーバーの後遺症の最中にあり、スタッフなども、暗めの淳子がいますよ、と言っていたくらいだから、その個性の中で考えると、二番目の不利、鮮度を失って見られるのも、無理はなかった。

 だが、もしかしたら、妹役にはよほど腹を立てていたのかもしれない。それが理由のすべてだとも思えないが、結局ぼくは、山口百恵の詞は一篇も書くこともなく、最も縁遠い歌手となった。

 桜田淳子は笑顔を一秒で作れる。山口百恵は笑顔とわかる表情に変化するまで十秒かかる。この一秒と十秒の差は、まったく別個性であることの証明で、大迎に言えば、14歳の少女が踏み歩いている人生の差、背負っている運命というものの重さの差、考えている幸福観への信頼の差、思い描くサクセスの差なのであるが、それらに気がつくのはもっと後である。後楽園ホールでの、二分少々の応募者と審査員の接触では、とてもわからなかった。

 たまたま縁がなかったのか、山口百恵側の怒りだったのか、今になってはその原因はわからない。もちろん、彼女が復活してもそのことは否定するだろう。だが、阿久悠氏にとってはこれもまた不思議な人と人との出会いであり、「スター誕生」から始まったアイドル全盛時代の幕開けの一場面だったのである。


追記

「彼女の書いたもの」とは「蒼い時」である。

 しばらくして、人々が集まり、リハーサルをして本番になった。ドキドキする胸を押さえながら歌った。審査員のひとりが批評した。

 『君は、例えば誰か青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌は…あきらめた方がいいかも知れないねェ』

 僅かながら持ち合わせていた自信は、ガラガラと音をたててくずれてしまった。それでも、規定以上の点数を集めた私は合格、決戦大会への出場が決まった。(60年代通信百恵より)




追記の追記

阿久悠」は何故「山口百恵」に歌を提供しなかったのか?というコラムでまた新たな証言があった。これはあるワイドショーで山口百恵の育ての親の酒井政利氏が登場し、阿久悠氏の解説をしていたという。

最後の方で 司会者が「これだけは聞いて おきたかったのですが・・」と フィリップを出し そこには「何故、阿久悠は 山口百恵に歌を作らなかったのか?」と書いてありました。司会者が「だって 中三トリオの昌子さん、淳子さんにも 曲を提供してるのに・・どうして百恵さんだけには作らなかったのですか?」と突っ込みました。一瞬、「酒井」さんは戸惑い そのままCMに・・。


「酒井」さんは「阿久」さんとは 凄く親しい間柄だったそうです。「本当のことを言いますと・・昌子ちゃんはいきなりヒットしてスターになり、淳子さんもすぐスターになり、第三の席に 百恵さんが当たったのですが 少々、出遅れた感がありました。時代は 暗い時代に入っていた頃で、百恵さんには 明るい歌より 暗い歌の方が似合うのではないか?と判断して アンチ阿久悠で行こう!!・・となったわけです。百恵さんが引退してなかったら 阿久さんに 大人の歌を百恵さんに依頼していたでしょうね」との事でした。「で・・ツッパリソングなどを出して これからと言う時に 阿久さんは ピンク・レディーで勝負を挑んできてね・・」と苦笑していた「酒井」さんでした。

 つまり「アンチ阿久悠」が大成功だったわけだ。だが、酒井氏が阿久悠氏に詞を依頼したらどうなるか。わざわざ自分の自伝「蒼い時」にエピソードを書いたのだから、ノーといったかもしれない。


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