夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

少年マガジン幻想曲

 タレントのウガンダ・トラ氏の死亡記事が芸能ニュースをにぎわしていた6月2日、新聞の死亡欄にもう一人の名前があった。その名は内田勝氏。 毎日新聞では

訃報:内田勝さん73歳=元週刊少年マガジン編集長 「あしたのジョー力石徹の告別式を企画

 内田勝さん73歳(うちだ・まさる=元週刊少年マガジン編集長)5月30日、肺がんのため死去。葬儀は4日午前10時半、東京都練馬区小竹町1の61の1の江古田斎場。葬儀委員長はソニー・ピクチャーズエンタテインメントの宗方謙社長。喪主は妻紀久子(きくこ)さん。

 65年、30歳で週刊少年マガジン(講談社発行)の編集長に就任。「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」などのヒット作を送り出し、部数を大幅に増やした。70年、「あしたのジョー」の人気キャラクター、力石徹の告別式を寺山修司らと企画。講談社を退社後はソニー・ピクチャーズエンタテインメント顧問などを務めた。

 内田勝氏といえば、「ウルトラ幻想曲」でとりあげたW3事件の頃の少年マガジンの編集長である。今回は、その続編として内田編集長と梶原一騎についてとりあげてみたい。

(1)月刊誌から週刊誌へ

 かつて少年誌は月刊誌であった。「ぼくら」「冒険王」「少年」など、漫画を主体にしながらも江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズや山川惣治の「少年ケニヤ」のような絵物語など、読み物も多かった。テレビの普及が、子供たちのライフスタイルを変えてしまった。月間スタイルから週刊スタイルへ、テレビアニメと週刊少年誌は強烈なタッグを組んで、子供たちの間で黄金期を築きつつあった。

(2)梶原一騎と佐藤紅緑

 月刊誌から、週刊誌になれば、単純に計算しても月間ページ数は4倍になる。今までのようにストーリーも作画も一人で書いていたのでは間に合わない。編集者たちは、自分たちで企画を作り、その企画にふさわしい原作者・漫画家(作画家)を探すことで乗り切ろうとした。漫画の分業化が漫画週刊誌の誕生で進められていったのである。梶原一騎もまた、少年小説家を目指していたという。しかし、週刊誌化によってその道は絶たれ、原作者の道を進むことになった。

 「ウルトラ幻想曲」で書いたように、「W3事件」により、手塚治虫少年マガジンを去ったとき、内田編集長と宮原照夫副編集長は、社長の一言から野球漫画をやることになってしまった。
 漫画評論家の夏目房之介氏の「マンガの深読み、大人読み」(イースト・プレス)に夏目氏と宮原氏の対談が載っていた。

宮原 『W3』移籍問題の頃、65年の8月、来年度の方針を決める講談社全雑誌の大方針会議というのがありまして、当時は各誌の方針を、社長(野間省一)をはじめ、全役員、全局長の前で発表する晴れ舞台なんですね。我々背水の陣だったけど、ものすごく燃えて、もう前向きにやりましたから、大好評だったんです。

 ところが最後に社長が軽い調子で、「この野球ブームに野球マンガが予定にないな」と。事実、ない。これ、えらいことなんです。そしたら、ある局長がワッと立って、「社長、本日この場には出せませんでしたが、今、すごい野球マンガを考えてます。来年、誌上でお目にかけます」と。「そうだろう。これだけのことを考えているマガジンだからな」と社長がうなずいて、ちょん。

夏目 大ミエきって幕閉めたけど、じつはなにも決まってないわけですね。

宮原 そう。それで、その局長があとで僕に、「宮原、すごい野球マンガは、お前がつくれ。俺に恥をかかせるな」って。

 宮原氏は「野球に人生をかけた、一人の男の半生を描く大河野球漫画」(宮原照夫著「実録少年マガジン名作漫画編集奮闘記」講談社)というキャッチフレーズを作り、構想を固めていったという。
 構想は徐々にまとまりつつあったが、こういう作品はそれまでマンガ界に存在したことがなかったのであるから、漫画家がオリジナルで創れる作品ではないと判断した。原作者を誰にしようかと考えた時、たった一人だけ脳裏に浮かんだのが、格闘技作家のレッテルから抜け出せず低迷期に会った梶原一騎だった。

 こんどの野球漫画は、いろいろなタイプの<男>を書き分けることができ、かつ野太い人間ドラマに仕上げなければならない。もちろん成功する保証はないが、あえて格闘技の梶原一騎に骨太の人間ドラマを期待して白羽の矢を立てたのだった。(宮原照夫著「実録少年マガジン名作漫画編集奮闘記」講談社)

 内田氏の著書「奇の発想—みんな『少年マガジン』が教えてくれた」(三五館)にこんなエピソードが語られている。
 梶原さんは名うての酒豪で、下戸だった僕もウイスキーやブランデーを生(き)のままで(おまけに、ビール並みに、ボトルを大きく傾けて、グラスの口元までドクドクと注がれてしまう)、ずいぶんとつき合わされた。

ある日の打合せも一段落し、深酔いしてグラグラする頭の中に、ふとひらめいたことがあった。それは編集長の辞令を交付された日、会社の図書館で読みふけった『少年倶楽部』で「のらくろ」などの漫画と並んで、全国の少年たちの熱き血を沸きたたせた「あゝ玉杯に花うけて」などで知られる少年小説の雄、佐藤紅緑の名だった。

ぼくはほとんど反射的に声を上げた。「梶原さん、『マガジン』の佐藤紅緑になって下さい』−一瞬の間こそあったが、梶原さんは大きくうなずき、「内田さん、判った。自分がひそかに敬愛していた紅緑にあやかり、マンガを男一生の晴れの舞台と心得て、根の続く限りやらせてもらいます」。“梶原攻略”作戦は、かくして自分にとっても思いがけない一言がきっかけとなって成就したのだった。

 ところが、宮原副編集長の証言は違う。先ほどあげた(夏目房之介著「マンガの深読み、大人読み」(イースト・プレス)では、
夏目 内田さんの回想だと、「マガジンの佐藤紅緑(生前の少年小説の大家)になってくれ」と、内田さんがくどいて梶原さんがやる気になったって話ですが。

宮原 内田さんが、それをいったのは、僕の記憶では梶原さん、もうOKしたあと。僕は佐藤紅緑はちょっと違う気がした。飛雄馬って名前も、はじめ内田さんは反対して、星明になったんです。でも、僕は梶原さんに「僕はいいと思う」っていって、じゃそうしようと。

 後半の「星飛雄馬」の名前のエピソードについては、宮原氏の著書(宮原照夫著「実録少年マガジン名作漫画編集奮闘記」講談社)によれば、
 主人公の名前に移った。内田は、「星飛雄馬」の漢字は難し過ぎて、読者が覚えにくいという理由で<星明(ほしあきら)>でいきたい、と言った。てっきり抵抗すると思った梶原は、この名前に異を唱えなかった。

 これまでの荒唐無稽な漫画ときっぱり訣別したいという想いから、<ヒューマンな主人公>を生み出して、文学のように<ヒューマンな物語>を綴りたいと考え、<ヒューマン><ヒューマン>を連発してきた。その<ヒューマン>の音感から、<飛雄馬>という名前を梶原は考え出してくれた。素晴らしい名前ではないか!想いを胸に企画した者には、そのテーマが込められた名前を、簡単に葬り去ることなど、到底できる相談ではなかった。

(中略)

本来は、編集長の考えに従うのが部下の立場である。しかし、<飛雄馬>が<明>になってしまったら、作品の価値は半減するだろう。もしかすると、短命に終わるかもしれない。そう考えるに及び、あえて異を唱えたのである。

「そこまで読み取ってくれてありがとう。実を言うと、頭の中では飛雄馬で、この作品のイメージは完全にでき上がっていたんだ」の梶原の言葉に、内田も折れた。

(3)ちばてつや梶原一騎が作り上げた「あしたのジョー

 梶原一騎少年マガジンといえば、「巨人の星」と「あしたのジョー」であろう。(斎藤貴男著「梶原一騎伝‐夕やけを見ていた男」文春文庫)から引用してみたい。
 ストーリーと作画との単なる分業を超えたものを志す以上、原作者と漫画家の密接な意思の疎通は不可欠だ。梶原とちばは、互いの多忙の合間を縫い、内田、宮原ら編集者も交えて、できる限り会って話をするようにした。(中略)それでも、梶原の意図をちばが誤って解釈したことも多い。いずれ重要になるキャラクターだと思って描くと単なる通行人だったり、その反対だったり、ジョーの宿命のライバル・力石徹は、後者だった。

 ジョーが詐欺をはたらき、特等少年院に送られて、力石と出会うシーン。原作には、「力石がジョーの前にたちはだかった」などとあった。これで、ちばが誤解した。

「力石が頑丈そうな大男という印象を受けましてね。彼がその後どう動かされていくのかを知らないまま、ジョーよりふたまわりも大きく描いてしまったんです。他のスポーツならいざしらず、ボクシングは体重制ですからね。そのままでは二人に試合をさせることができない。梶原さんもそうとう困られたようです」

 だが、この失敗が結果的には力石の過酷な減量を必要にし、あの凄まじくも素晴らしいシーンに結びついていく。

 力石の死は、社会現象になり、1970年3月24日、告別式(講談社の講堂まで営まれた。主催は、寺山修司天井桟敷

 そして真っ白になったジョーのラスト。

夏目 学生の頃、燃え尽きたジョーのラストページ見たとき、思ったんです。生きてるとも死んでるとも描いていない。ほんとにいい、うまいラストだなと。燃え尽きたんだからどっちでもいいんですよね、ここは。

ちば ええ、ええ、そうです。

夏目 でも、このラストは原作を使わず、すごく苦労なさった。

ちば 梶原さんとは、ここから先はこうしようかと話し合いながらつくってきたんだけど、この頃ちょうど世界空手道選手権とかで飛び回っている時期で、打合せなんかできなかった。ラストでジョーが負けることはわかってるけど、僕は『あしたのジョー』のひとつのテーマが見つからなかったんですよ。

夏目 えっ、最後のところで?

ちば ええ。日記つけるみたいに、ずっと描いてきてね。最終回の原作読んで、ちがうと思った。

 段平が負けたジョーに、「お前はボクシングには負けたけど、ケンカには勝ったんだ」って言うんです。ここまできて、それはないと。よくおぼえてないけど、そのあと葉子と一緒にひなたぼっこしてるのかな。なにかそんな感じで…。

 それで、「これだと僕は描けない。最後は変えますよ」と梶原さんにいって、「ん、頼む、まかせるよ」っていうことでね。でもそのとき、すでに締め切りは過ぎてて…。

夏目 えっ、そのとき締め切りすぎてんですか?(笑)

ちば もう過ぎてて、何通りもラスト考えるんだけど、なかなかできない。時間はどんどん過ぎてく。ここまで盛り上げて、読者はもちろん、「ジョーが終わる」って予告してる編集部、まかせてもらった梶原さん、ぜんぶ納得できるラストにしないといけないじゃないですか。

 担当者もイライラして、その彼が、最初からのゲラ(校正刷り)を綴じたのを、ずーっと読んでくれて、なかばで乾物屋の紀子とデートする場面を見つけて、「ちばさん、これがテーマじゃないですかね」っていってくれたんです。

夏目 カーロス・リベラと闘ったあと、紀子がジョーに、ほかの若い人は青春を謳歌しているのになんでそこまでやるんだと。「さみしくないの?」って聞くんですよね。そこでジョーが、「そこらの連中みたいに不完全燃焼じゃない。一瞬にせよ、燃えるんだ。あとにはまっ白な灰が残るだけだ」って答える場面ですね。

ちば それでラストがポーンと浮かんで、あとはあっという間、2日くらいで描きあげたと思います。アシスタントも担当も、原稿見てる顔が、ああなんとなく納得してくれたかなって思いましたね。(夏目房之介著「マンガの深読み、大人読み」(イースト・プレス

  斎藤貴男氏の「梶原一騎伝‐夕やけを見ていた男」(文春文庫)では、もう少し詳しく書かれている。梶原のラストについて、ちばが作者の斎藤に語ったところでは
 「ジョーはホセに敗れる。うなだれたジョーに、段平が言っていた。『お前は試合には負けたが、ケンカには勝ったんだ』。

 ジョーが白木邸で葉子と一緒にぼんやりとひなたぼっこしている。彼が廃人になってしまったかどうかは定かではない。葉子は微笑んでいる。二人とも幸せそうだ…」(斎藤貴男著「梶原一騎伝‐夕やけを見ていた男」文春文庫)

 また紀子とのデートのシーン。
 カーロスとの“世紀の一戦”は終わった。ふらりとジムを出たジョーは偶然紀子と出会い、語らう。初めてのデートだった。紀子は言った。

「矢吹くん…もう、ボクシング、やめたら?」

 このままではいつか悲しい目にあう、これ以上見ていられない。ジョーを慕う彼女が精一杯の気持ちを口にした。

紀ちゃんのいう、青春を謳歌するってこととちょっとちがうかもしれないが—燃えているような充実感は、いままでなんどもあじわってきたよ…。血だらけのリング上でな。

 そこいらのれんじゅうみたいに、ブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんのしゅんかんにせよ、まぶしいほどまっかに燃え上がるんだ。


 そして、あとにはまっ白な灰だけが残る…。燃えかすなんかのこりやしない…。まっ白な灰だけだ。

−わかるかい、紀ちゃん。負い目や義理だけで、拳闘をやってるわけじゃない。拳闘が好きなんだ。死に物狂いでかみあいっこする充実感が、わりと、おれ、すきなんだ

 無口なジョーが、いつになく饒舌に、自らを語った。だが、紀子は、
「わたし、ついていけそうにない…」

 また、差し入れ持って、ジムにあそびにいくわね。そう言って走り去っていった…。(斎藤貴男著「梶原一騎伝‐夕やけを見ていた男」文春文庫)

(4)梶原一騎とはなんだったのか

 梶原一騎といえば、漫画の原作者としてスーパースターである。だが、この暴力団のまがいのコワモテさと事件まみれの近づきがたさはなんだろうか。
 大塚祐哉著「梶原一騎そして梶原一騎」(風塵社)にそのヒントが書かれていた。
 『巨人の星』と『男の星座』、この二つのタイトルに共通しているのは「星」という言葉が使われていることである。


 高森篤子未亡人の話によれば、梶原が逮捕されたあと、プロレスラーのアントニオ猪木などは、手のひらを返したように梶原の悪口をテレビなどで散々喋っていたそうであるが、それにもかかわらず梶原は、アントニオ猪木のことは好きだったそうである。

 それはなぜなのか。

 それはアントニオ猪木が「スター(星)」だったからだという。

 磨けばピカピカの宝石になる原石が、ただの石ころとは異なるように、スターという人種には大勢の中にポツンといても目立つような、人をひきつける何かがあるというのだ。

 梶原が、プロレスラーの力道山や作家の三島由紀夫、プロ野球選手の長嶋茂雄などが好きだった理由も同様らしい。

 私はこの話を聞いたときに、急に梶原一騎という作家の作品世界のある一面が、わかりやすく目の前に見えてきたような気がした。

 人間は自分に無いものを持っている人間に憧れるものだという。

 梶原がスターを好んだのは、高校を中退して、小説化にはなれずに漫画の原作者としてなりあがった劣等感の裏返しからだったのか、それとも戦後の混乱期から復興期にかけての物資の乏しい、貧しい時代に青春時代にを送ったからなのかはわからない。

 けれどもこれにより、なぜ『巨人の星』の中でプロ野球選手としてスターになれなかった星一徹が、わが子の飛雄馬を「巨人の星(スター)」にさせたいと願ったのか、とか、なぜ、『あしたのジョー』の中で、プロボクサーとして大成できなかった丹下段平が、矢吹ジョーの中にボクサーとしての素質があることを見抜き、彼を一流のプロボクサーにさせようとしたのか、など、梶原劇画の構図の中にある一面が分かってくるのである。

 それは『巨人の星』や『あしたのジョー』の中で、主人公のライバルとして、花形満や力石徹などの生まれついてのスターが登場してきたことも同様である。

 否、男性だけではない。

 女性についても、『巨人の星』の中では星飛雄馬の姉の星明子や、『あしたのジョー』の中でも白木財閥の令嬢、白木葉子のようなピカピカと輝く、まるで天使のような、女性が登場したことも同じような理由であろう。

 それはまた、読者である少年たちも自分をそこに重ねていたに違いない。自分はスターに憧れ、貧しい境涯の中から、夢に向かってきっと立ち上がって生きたいと。しかし、多くの物語が梶原氏の人生と同じく、挫折の連続であっても。
ブログパーツ