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素人だから言えることもある

黒手塚ワールド「MW」

「MW」の映画化

 手塚治虫の漫画「MW」が実写映画化されるという。(映画公式サイト)
eiga.comによれば、
[eiga.com 映画ニュース] 「KIDS」「ただ、君を愛してる」の人気俳優・玉木宏が、手塚治虫生誕80周年記念作品として製作中の映画「MW ムウ」で初の悪役に挑戦することが分かった。
手塚治虫原作の「MW ムウ」(1976〜78年、小学館『ビッグコミック』連載)は、悪を体現する殺人鬼を通して現代社会の病理を浮き彫りにする、ピカレスク(悪党)コミックの名作。映画は、表の顔はエリート銀行員、裏の顔は次々と人を殺める冷酷な殺人鬼という二面性を持つ結城美智雄(玉木宏)を主人公に描く。
「MW」といっても、この作品を知ってる人は少ないだろう。Wikipediaでは
本作は手塚作品としては異例なほど生々しい性描写や猟奇的殺人場面が描き出されているのが特徴である。子どもの目にさらすことの危ぶまれる手塚作品の一つといってよい。タイトルのMWとは、結城が犯行の際に得意の女装や男娼的行為をすることに関連づけられているといわれている(Man/Woman)。

また、化学兵器の漏洩というエピソードは1969年7月8日に沖縄のアメリカ軍基地内の知花弾薬庫で起こったサリン漏洩事故が下敷きになっていると考えられる。この事故では、米軍関係者24人が中毒症状を起こしている。

 まさに、おどろおどろしい作品である。昨年の「どろろ」映画化とあわせて、この「MW」を黒手塚ワールドを象徴する作品の一つである。

黒手塚とは何か

 これは、NHKの「BSマンガ夜話」で手塚特集をしたとき手塚漫画には白手塚と黒手塚の話題が出たという。ポップコラム(リンク切れ)にこうある。
ひとつの漫画作品を1時間も徹底的に語り合う「BSマンガ夜話」という番組で手塚治虫の「ワンダー3」が取り上げられたとき、「白手塚・黒手塚」という言葉が出てきた。手塚治虫という一人格には、「鉄腕アトム」とか「ユニコ」みたいな作品を描く「明るくて健康的な“白い手塚”」と(アトムが白いというのは異論もあるだろうけど)、「空気の底」とか「アラバスター」みたいな「暗黒面」バリバリの作品を描く「暗くて重い“黒い手塚”」が共存している、というような意味合いである。(ポップコラム)

「MW」の黒手塚

 単純に連続殺人ものといっても、この「MW」の主人公の犯行のユニークさは、他のミステリーとかなり違っている。主人公の結城は、女形の歌舞伎俳優の弟であり、美貌の持ち主である。その点が、犯行に役立っている。ターゲットの娘に近づき、親しくなると、娘を殺し、その服を使って、娘に変装する。親に対しては、身代金を要求しながら、人質としても行動する。いわば、犯人と人質の一人二役で、犯行を重ねていくのだ。普通は、身代金を払うまでは娘は生きていると親は考える。しかし、人質は、身代金を手に入れた後は、行方不明となる。結城の美貌は、女形としても、女をひきつける点でも、よく考えられた設定である。

 もちろん、マンガだから実際には親にはバレてしまうかもしれない。だが、取り巻きの人間(主に男)にとっては鬘や服で簡単にだまされてしまうだろう。また、もう一人、彼の同性愛関係の賀来神父との関係がある。「MW」という化学兵器の漏洩事件をきっかけに島で生き残った二人になったが、その生き残った原因は、洞窟の中で同性愛関係を持ったためである。その負い目を利用して結城は教会を警察から逃げるための隠れ家として利用する。神父は、結城をこの世界に引きずり込んだ引け目からも、また、神父の役目からも、職務上得たざんげなどの情報を警察に伝えることができない。

 このように見ていくと、「MW」は女装同性愛という今までの健康的な手塚カラーのイメージ(白手塚)をぶち破っている。

「MW」と「復讐するは我にあり

 しかし、教会と殺人犯のテーで思い出すのは、西口彰連続強盗殺人を小説化した「復讐するは我にあり」(佐木隆三著/講談社文庫) である。西口は、榎津と名前は変わったが、「MW」の結城と同じように、犯罪に対する冷酷さは共通である。
昭和38年。当時の日本の人々はたった一人の男に恐怖していた。榎津巌(えのきづ いわお)。敬虔なクリスチャンでありながら「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、78日間もの間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、43歳で処刑された。映画ではこの稀代の犯罪者の犯行の軌跡と人間像に迫る。(復讐するは我にあり-Wikipedia)
 映画化した今村昌平監督は、「復讐するは我にあり」のプログラムの中で、
「復讐は神の業であり、人間がなすべきではない」という教えを、キリスト教徒である男は、百も承知しながら、肢体の律法にのみ従い、刑死を以て自己完結する。

犯罪のすべてを描くことで、私は現代と、現代人の存在の根を捉えようと思っている。

この男の内部は、空洞でしかないのではないか。

この男の中に、私はよるべない現代人の魂を見る。

使徒パウロの、ローマ人への手紙の中に、「私は、内に神の律法を認めながら、肢体には別の律法があって、心の法則に対して戦いをいどみ、肢体に存在する罪の法則の中に私をとりこにしているのを見る。私は何というみじめな人間なのだろう」とある。(今村昌平監督「復讐するは我にあり・演出にあたって」松竹)

 確かに、結城は賀来神父に対する態度と、被害者に対する態度がガラッと変わる。賀来神父は、司教にこんな贖罪を語っている。
「この私の贖罪は死ぬまで続くでしょう。なぜなら、結城美智夫がMWのために大脳が犯されたのか、知能は進んでも、その心には…一片の良心やモラルのかけらもなくなってしまったからです。彼の心には悪魔が入り込んだのです」(手塚治虫全集MT301「MW」講談社)
 榎津、結城にはモラルは消えうせ、空洞しかなくなってしまった。空洞しかない人間を理解することは不可能だろう。本日、6月17日、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤が処刑されたという。彼もまた、体の中の空洞を抱えて死んでいったに違いない。
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