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素人だから言えることもある

黒手塚ワールド「どろろ」

不幸な生い立ちの「どろろ」という作品

昨年、「どろろ」が映画化された。しかし、この作品は、大変不幸な生い立ちを持っている。どろろWikipediaにこうある。
 時代劇で妖怪物、というかなり特殊なジャンルとして発表されたが、手塚治虫が雑誌で語っているが、その暗さなどから明るいものばかりの漫画の中で当時の読者に受け入れられにくく不人気であった。また打ち切りとアニメ化に伴う再開と掲載誌の変更もあったが相変わらず不人気で構想の通りのラストまで描けず、打ち切りによくあるナレーションで今後の結末を示す形となった。

 アニメは、ヒーローキャラである百鬼丸をうたったタイトル変更、なによりも全身に欠損を持つ超能力者と盗賊の孤児が主人公ということで、差別語問題など微妙な問題が多く地上波では殆ど再放送されない。こうしたかなり不遇な状況を背負った作品である。

百鬼丸ホムンクルス

僕は、昨年「どろろ残像」を書いた。現在は、ネット上で読めなくなったので、一部を引用する。
 さて、この「どろろ」大変凄惨な物語である。その凄惨さゆえにテレビでアニメ化したものの、再放送はされなかった。

 泥棒「どろろ」と旅する百鬼丸の父醍醐景光が天下を取るため、48の魔物に自分の息子の体をささげたことから始まる。

その箇所は、ゲーテの「ファウスト」とよく似ている。ファウストは、すべての学問を究めた老学者でさらなる満足を求めて悪魔と魂の契約を結ぶ。(Wikipedia)手塚はこのファウストの物語を何度も書いている。(「ファウスト」「百物語」「ネオ・ファウスト」)。

 特に、ファウスト第二部第二幕に「ホムンクルス」(人造人間)が登場する部分は、手塚がたびたび描いている「生命誕生」のシーンを髣髴とさせる。

 たとえば、「どろろ」では、寿海(じゅかい・百鬼丸の育ての親)が48の魔物によって失われた箇所を義肢や義足で補い百鬼丸を形作るシーン。「鉄腕アトム」では、天馬博士がロボットアトムを完成させるアニメのオープニング。映画「どろろ」では、このシーンでわざわざエレキテル(電気)でショックを与えるシーンを加え、「鉄腕アトム」へのオマージュとなっている。さらにいえば、「ブラックジャック」でのピノコを姉の体内から取り出し、人間として組み立てるシーン(「畸形嚢腫」より)。

 「どろろ」とは関係ないが、鉄腕アトムが「ピノキオ」(原作カルロ・コッロディ)に影響を受けたのは有名だ。ピノキオが悪い狐たちにだまされて「サーカス」に連れられていくが「鉄腕アトム」でもロボットサーカスが登場する。ピノキオの場合、最後にゼベットじいさんという生みの親の元に戻るのだが、手塚の場合、「どろろ」でも「鉄腕アトム」でも生みの親(醍醐景光・天馬博士)よりも育ての親(寿海・お茶の水博士)のほうが優しいというのは一体どういう意味だろうか。父親を乗り越えていけという意味かもしれない。ちなみにブラックジャックピノコはその名のとおり、ピノキオの女の子版という意味である。

境界で悩むか境界を超越するか

 手塚治虫の作品は、2つの境界の中で悩むものが多い。たとえば、鉄腕アトムは人間とロボットの間で悩み、ジャングル大帝で、ライオンのレオは、人間と動物たちの間で悩む。リボンの騎士でも、男と女の心の間で悩む。白手塚が、ヒューマニズムとよく言われるのは、モラルとか良心が彼らの行動を制限する枠になっているからだ。それなら、その枠をとっぱらったらどうだろうか。それが黒手塚の世界である。前項、黒手塚ワールド「MW」の結城は、人間の常識はおろか、男と女の枠にもとらわれない。

 一方、「どろろ」の百鬼丸は欠損した48箇所を取り戻し、完全な人間になる物語である。大変わかりやすい設定だが、そのまま絵になることは、世間の常識の範囲を超えている。

 たとえば、TBSで「怪傑ドクターランド」という医学情報番組があった。この番組、大変まじめなものだったが、毎回手術シーンがあるので大変えぐかった。つまり、テレビの視聴者には耐えられなかったのである。それと同じで、成人向けならともかく、読者や視聴者には一つの境界線がある。「どろろ」はその境界線を超越していたのだ。前回の「MW」にしても、「どろろ」にしても黒手塚が受けいられる時代が来たのだろうか。


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