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素人だから言えることもある

なぜ、ブログに資料を引用するか

残る文章しか書きたくない

 ぼくのブログは、他のブログに比べて、圧倒的に資料の引用が多い。しかも、リンクだけでなく、雑誌や単行本などの紙資料も多い。そのことは、ぼくのブログの活用方法として身についている。多くのブログは、ニュースがあれば、そのニュースについての感想をコメントの形で書く。しかし、それでは、その場限りの話題で終わってしまう。そんなものなら、書かなくてもいいし、決して残らない。ぼくは、そのニュースについて、他の知識と結びつける。いわば、情報化するのである。

ニュースはつながっている

 たとえば、「秋葉原通り魔事件」が起こったとき、犯人のおびただしいつぶやきが残ったケータイの掲示板に着目した。それは各テレビ局がそこに着目しているからでもある。なぜなら、読者がそれを読んでいることを前提にすれば、話が書きやすくなるからだ。たとえば、「希望がある奴にはわかるまい」という言葉があれば、かつて「この国には希望だけがない」で書いた、村上龍氏の「希望の国のエクソダス」の言葉を思い出す。(「誰でも良かった」犯人は、誰でもなかったその他大勢の一人)ニュースには、必ず社会的背景があるのだ。そして、そこを掘り下げれば、誰にも書けない文章が書ける。知識の作法に書いたように、「知識がたまれば、過去の知識と連動する」のである。

記憶のタグを集める

 知識というものは、本や資料を読んだだけでは身につかない。まず、自分の手で書き写す努力をしなければ自分のものにならないのだ。ぼくは、気になるニュースがあったら、まずインターネットでそれに関しての本を探す。そして、その本がどこの図書館にあるかを調べて借りる。決して、断片的な情報ではなく、その本人や関係者が言った言葉が載った一次資料まで掘り下げることが大切だ。すると、その断片的な情報よりも、もっとニュースの肝となる文章がそこから見つかることが多い。そのときは、文章にならずとも、別のニュースで使える文章かもしれない。ともかく、あの文章はあの本にあったなという記憶のタグをたくさん集めることが大切だ。

 たとえば、前回書いた「今の日本のテレビで「全員集合」が作れない理由」にしても、きっかけはたまたま放送された特番である。自宅にあった「全員集合」の本が役に立った。もちろん、自宅になくても記憶のタグをたぐりよせれば、数日以内にその本を手に入れることは可能である。それは偶然であるかもしれないが、日ごろから、記憶のタグを集めていけば、誰でもそのことは可能であるし、人によって興味や関心が違うから、それぞれ違ったところから引用することになるだろう。

 ぼくは、「個人的データベースのすすめ」にもこう書いている。

 そのニュースが信頼できるかどうかは、できるだけ多くのニュースを集め、できれば、その素材の元になった本などの文字資料を探さなければならない。なぜなら、多角的に集めた素材こそ、データベースに使えるのである。したがって、単純にリンク先をしめしただけでは、ただのコメントであり、感想である。読者は、ニュースの表面的なものより、どこにも流れていない情報を知りたいのであり、それは自分で集めていくしかない。

メディアはハードだけではない

 ぼくのブログは、他のブログと違って、コンテンツの内容まで踏み込んでいる。もちろん、ぼくがIT関係者でないのが理由の一つだが、ハードとソフト、(最近で言うならコンテナーとコンテンツ)をジャンル分けしても何の意味もないと思うからだ。したがって、ぼくのブログではインターネットやデジタル家電からお笑い・芸能・事件に至るまでメディアに関するありとあらゆるものがテーマである。

読者は関係者だけではない

 ぼくが疑問を持つのは、映画の感想を語り合うサイトである。映画を語るには、その映画を見たことが前提になっているからだ。それなら、その映画を見たことのない読者にも、わかりやすくしようと努力すべきだ。ぼくは、映画を語るときは、プログラムの引用が多い。それは、原作者や監督が意図したことが如実にあらわれているからだ。映画の作品のよしあしなどは評論家に任せればいい。面白かったかどうかなんかも同様であり、誰も感想を求めていないだろうと思う。

 また、このサイトの一部の読者ブロガーでも、なぜか自己PRの場にしている人や、大学教授でもあるかのように、ごく狭い範囲の話ししかしない人もいる。もちろん、読者にはIT関係者が多いとは思うが、決して関係者の雑談に落ちることなく、自分のブログから何かをつかんでほしいと考える気持ちが大切だと思う。
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