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素人だから言えることもある

黒いスピルバーグ

黒いスピルバーグの発見

 インディ・ジョーンズ関連の資料を探していると、ユリイカ7月号
【徹底討議】黒いスピルバーグの映画史 アメリカ/映画の光と影/蓮實重彦×黒沢清
という対談があった。映画評論家の蓮實重彦氏と映画監督の黒沢清氏との対談である。最近、白手塚と黒手塚について書いているが(黒手塚ワールド「MW」)、スピルバーグについても、そのようなわけ方ができるのかと思うと大変興味を持った。最初、思ったのは、黒手塚が比較的規制のゆるい青年誌から始まったように、白いスピルバーグは、『未知との遭遇』や『E.T.』のような家族向けファンタジーやSFのことで、黒いスピルバーグは『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』のような大人向けの深刻な作品をさすのではないかと思ったが、かなり違うらしい。

その【徹底討議】の中で、

蓮實 私は世紀末に撮られた『マイノリティ・リポート』あたりから、この人の作品は真剣に見なければいけないと本気で思うようになったのですが、そうすると、彼が70年代から80年代にかけて撮っていたSF映画−『未知との遭遇』や『E.T.』をどう位置づけていいのかわかりにくくなります。スピルバーグの代表作と言うと、一般的にはいまだ『未知との遭遇』や『E.T.』や『ジョーズ』ということになるのだと思いますが、私がこうした作品を評価しつつも無条件にのめりこめなかったのは、カミンスキー以前のややアメリカン・ニューシネマ的な撮り方がされていて、逆光の場面がかなり多いのに、影が黒くないからなんです。

黒沢 スピルバーグがまだ影よりも光を重視していた時代ですね。

蓮實 しかも、なぜか青っぽい白さの光でしょう。被写体がUFOだからしょうがないのかもしれませんが、影の黒さを、映画としてではなく、どうも同時代的な風俗として回避していたように見える

“白い”スピルバーグと、カミンスキー以後の“黒い”スピルバーグがいて、一般的に代表作と思われているのが、どちらかと言えば、ビルモス・ジグモントがキャメラを担当した白いスピルバーグのほうだと考えると、今日のスピルバーグはどこかで決定的に変わったんだと思わざるをえない。(ユリイカ7月号・【徹底討議】黒いスピルバーグの映画史)

つまり、映画の作品的内容ではなく、撮影監督の違いらしいのだ。そこでスピルバーグ作品の撮影監督を調べてみた。
主な監督作品(スティーヴン・スピルバーグWikipedia )
『続・激突! カージャック』(1974年) ヴィルモス・ジグモンド
『ジョーズ』1975年) ビル・バトラー
『未知との遭遇』(1977年) ヴィルモス・ジグモンド
『1941』(1979年) ウィリアム・A・フレイカー
レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年) ダグラス・スローカム
E.T.』(1982年) アレン・ダヴィオー
『トワイライトゾーン/超次元の体験』 (1983年) アレン・ダヴィオー
インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984年) ダグラス・スローカム
『世にも不思議なアメージング・ストーリー』(1985年) ジョン・マクファーソン、ロバート・スティーヴンスなど
『カラー・パープル』(1985年) アレン・ダヴィオー
太陽の帝国』(1987年) アレン・ダヴィオー
インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 (1989年) ダグラス・スローカム
『オールウェイズ』(1989年) ミカエル・サロモン
『フック』(1991年) ディーン・カンディ
ジュラシック・パーク』(1993年) ディーン・カンディ
シンドラーのリスト』(1993年) ヤヌス・カミンスキー
『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』 (1997年) ヤヌス・カミンスキー
『アミスタッド』(1997年) ヤヌス・カミンスキー
プライベート・ライアン』(1998年) ヤヌス・カミンスキー
『A.I.』(2001年) ヤヌス・カミンスキー
マイノリティ・リポート』 (2002年) ヤヌス・カミンスキー
キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年) ヤヌス・カミンスキー
『ターミナル』(2004年) ヤヌス・カミンスキー
宇宙戦争』(2005年) ヤヌス・カミンスキー
ミュンヘン』(2005年) ヤヌス・カミンスキー
インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008年) ヤヌス・カミンスキー
(『激突!』などのテレビ作品は除く)
確かに、『シンドラーのリスト』以降、ヤヌス・カミンスキーで統一されている。面白いのは、インディ・ジョーンズのシリーズ作品である。前3作品が、ダグラス・スローカムが撮っており、今回の、『クリスタル・スカルの王国』は、ヤヌス・カミンスキーなのである。

インディージョンズは黒いスピルバーグ

 冒頭に引用した【徹底討議】では、今回の『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』について、強い違和感があったという。
蓮實 それで、『インディー・ジョーンズ4』ですが、黒沢さんと同じで、私もそれなりに楽しめたし、ハリソン・フォードというスターがまとっているある種の透明なオプティズムには感動に近い思いさえいだいたのですが、やはり大きな疑問符が最後まで消えませんでした。それは、あのヤヌス・カミンスキーという才能豊かなキャメラマンを使って、こんな画面でいいの?ということです。

黒沢 その通りです。そうなんです。カミンスキーは初めて『インディー・ジョーンズ』を撮ったわけですが、冒頭から「えっ、これがカミンスキー!?」という違和感があって、たぶん意表を突いたんだろうと思うのですが、最後までそうやって完全に個性を殺したカミンスキーが起用した意図がわからなかった。ここ数作、カミンスキーの凄さが極まっていただけに意外な感じがしました。(ユリイカ7月号・【徹底討議】黒いスピルバーグの映画史)

本エントリーでは、これからスピルバーグの意図を追及するわけだが、その前にヤヌス・カミンスキーのWiki から、カミンスキーについて述べておく。
1981年にヴォイチェフ・ヤルゼルスキ政権下でポーランド全土に戒厳令が敷かれた後、19歳でアメリカに渡り、シカゴにあるコロンビアカレッジに学ぶ。その後、多くの映画人を育成したAFI(アメリカ映画協会)の映画製作者支援講座で映画製作を学んだ後、撮影監督として活動を開始。低予算の映画からテレビ長編ドラマの撮影を手がけ、その中の一本がスピルバーグの目に留まり、『シンドラーのリスト』に抜擢され、全編白黒撮影という難題を克服、その手腕によりアカデミー撮影賞を受賞した。その後、スピルバーグを初め、キャメロン・クロウ監督などの作品の撮影から、監督業までを担当し、98年の『プライベート・ライアン』では、二度目のオスカーに輝くなど、東欧出身の撮影監督として確固たる地位を獲得している。

色調の抑制された、シャープでクールな画面構成を得意とし、銀残しなどのポストプロダクションなどにも精通している。また非常に早撮りであり、あらゆる作品にすばやく対応できるため、ラブロマンスから実話もの、歴史物、SFに至るまで、ありとあらゆるジャンルを撮り続けている。
しかしながら、現在はほぼスピルバーグの専属であるため、スピルバーグの創作的な衰えと平行して、両者のマンネリさを指摘する声もある。(ヤヌス・カミンスキーWiki pedia)

スピルバーグの意図

さて、がんばらない英会話にスピルバーグとのQ&Aが載っていた。
→そしていま、「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」「アミスタッド」といったヘビーなテーマの映画のあとでインディ映画に戻ってきました。あなたはなにかこれまでと違う手腕を身につけたのでしょうか? それともインディ映画をつくるために単に「インディ・モード」に戻っただけなのでしょうか?

スピルバーグ「『インディ・ジョーンズ』の最新作をつくるのは、私にとって18年間乗ってなかった昔の自転車にもう一度乗るみたいな感覚だったんだ。だから、乗る練習をしなくてもすぐにうまくバランスがとれた。撮影の最初の何日かでインディ映画の流儀を誰もがすぐに思い出したのにはすこし驚いたし、それはいいニュースだと言えた。最初の3作品を撮った1980年から1989年までのいちばん懐かしい思い出を甦らせてくれる、まさに同窓会といった感じだった。(1作目のヒロイン)カレン・アレンが戻り、ハリソンが戻ってきたのを見るのは楽しかったよ! 自分自身で(過去の)作品を見返したりもした。4作目を監督する前に、3本連続で観てみたんだ」

→どのような形で観たんですか?

スピルバーグ「撮影監督と一緒に観たよ。ここ(アンブリン)の試写室で、1日に1本のペースでね」

→それはヤヌス・カミンスキーですか?

スピルバーグ「ヤヌスだ。ふたりでスクリーンで観たんだよ」

→彼は最初の3作の撮影監督ではありませんよね。

スピルバーグ「そうだね。最初の『インディ』3部作を撮ったのはダグラス・スローカムで、彼のライティング・スタイルが冒険アクション・シリーズというジャンルの基礎をつくってくれた。それをヤヌスに見せたのは、ヤヌスには現代的なやりかたで21世紀風に仕上げて欲しくなかったからだ。ダグ・スローカムがうみだしたライティング・スタイルに近い感じで映画を撮りたかったから、ヤヌスも私も自分のプライドを飲み込む必要があったんだ。ヤヌスは他の撮影監督のやり方に似せる必要があり、私は若い頃の自分のやり方に似せる必要があった。私のやり方は20年ちかく経ったいま、だいぶ変わってしまった気がするからね

→90年代以降は、あなたの映画はすこし違った顔つきになりました。「ミュンヘン」も映像が素晴らしかったですが、どれもぜんぶ違って見えます。

スピルバーグ「みんなどれも違うね。『インディ・ジョーンズ』以降の作品は、ぜんぶ違うと思うな。私はすべての映画をそれぞれ違う監督が撮ったかのようにつくろうとしてきた。というのも、自分のスタイルに合っていないテーマのときにも自分ならではのスタイルを貫いてしまうということを、意識的に避けようとしてきたからだ。

だから、新しいテーマにとりくむときには毎回、新たな視点をもちこむようにしている。難しいことではあるよ。みんな自分のスタイルというのはあるからね。それは避けがたいものだ。あたかももともと持ってる花粉のようにね。

というか、自分が蜂である以上蜂であることは否定できいないけど、それでもつぎの作にとりかかるときはいつでも、すこしでもいいから自分の巣箱から飛び出そうと努力してるんだ。そして21世紀にインディ・ジョーンズを復活させるという今回の任務を遂行するには、自分がかつてつくるのに手を貸した1980年代の巣箱に戻る必要があったというわけなんだよ」(がんばらない英会話スティーブン・スピルバーグQ&A(その2))

また、「メイキング・オブ・インディ・ジョーンズ -全映画の知られざる舞台裏-」(ジョナサン・W・リンズラー/ローレン・ボザロー (著), 高貴準三[監訳] (翻訳)/ 小学館プロダクション)にも、
「私はヤヌスに、大きなスクリーンで前3作にを見せた」スピルバーグはそう説明する。「そしてこう言った。“ダグ・スローカムの貢献と彼が作り出した外観から、あまりはなれることはできないんだ。突然、新しい見かけに切り替えることはできない。今作の設定は1950年代だから、少し成熟させることはできる。だが、ほとんど同じ見かけを保たなくてはならない”とね。

するとヤヌスはダグ・スローカムの貢献に敬意を払い、似たような照明のパッケージを作り出してくれた。実際、ヤヌスはこの映画で、彼が手がけた他のどの作品よりも多くのライトを使っている」(ジョナサン・W・リンズラー/ローレン・ボザロー (著), 高貴準三[監訳] (翻訳)「メイキング・オブ・インディ・ジョーンズ -全映画の知られざる舞台裏-」 小学館プロダクション)

なお、ダグラス・スローカムは1913年生まれであり、(ダグラス・スローカムWiki )、2008年現在では95歳となる。キャリアの最後の作品は、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』である。現実的に、彼に撮影監督を依頼することはできないので、そこで、ヤヌス・カミンスキーとともに、シリーズ3作を改めて見返すことにしたわけである。

また、ヤヌス自身も

「前3作の『インディー・ジョーンズ』のビジュアルは、伝説になっている。撮影監督のヤヌス・カミンスキーは言う「したがって、4作目のスタイルは、前3作のスタイルを踏襲する必要があった。明るく、とてもあざやかな色で、深いフォーカスで、そしてアナモフィック・レンズを使って撮影した。ダグ・スローカムはそのハイ・キーの照明スタイルを作り出した。

それに新しい物語の時代設定が1957年、前作よりも20年近く後だということも付け加える必要があるね。だから1957年に見えるように、かつ2007年現在の観客にとって馴染み深く見えるように、映画の視覚的外観を調節することができた」(ジョナサン・W・リンズラー/ローレン・ボザロー (著), 高貴準三[監訳] (翻訳)「メイキング・オブ・インディ・ジョーンズ -全映画の知られざる舞台裏-」 小学館プロダクション)

単発映画なら、黒いスピルバーグを貫いても良かっただろう。だが、スピルバーグは今回の『インディー・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』では、それを封印した。それはDVDなどでシリーズを通して見る視聴者を意識しているに違いない。黒いスピルバーグの違和感よりも、インディー・ジョーンズの違和感を恐れたためなのではないだろうか。
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