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素人だから言えることもある

デジタル化は避けられなかったのか

歴史の大きなうねり

 最近の一連のエントリー、「2011年テレビ滅亡論」「2011年問題の後に2012年問題もある地デジのトラブル」「誰も語らない地デジの歴史」などを読んで、ぼくをデジタル批判派のようにとられている人もいるかもしれない。しかし、ぼくの視点はそこにはない。隠された事実を伝えることで、歴史の大きなうねりを描きたいと思うからだ。
 「歴史の大きなうねり」とは、「2007年とは何だったか。そして2008年はどこへ向かうのか。」で引用した「富の未来」の文章に
 新しい文明が古い文明を侵食する時期には、二つをくらべる動きが起こるのは避けがたい。過去の文明で有利な立場にあった人や、うまく順応してきた人がノスタルジア軍団を作り、過去を賞賛するか美化し、まだ十分に理解できない将来、不完全な将来との違いをいいたてる。

 見慣れた社会の消滅で打撃を受け、変化のあまりの速さに未来の衝撃を受けて、何百万、何千万の欧米人が工業経済の名残が消えていくのを嘆いている。(アルビン・トフラー著「富の未来・下」講談社

この「ノスタルジア軍団」とは、地デジ問題で言えば、「デジタル批判派」のことである。したがって、さまざまな困難を乗り越えて、時間はかかるが、デジタル化は避けられないと考える。一方の上に乗って、他方を攻撃する、自分の欠点を隠して、他人の欠点をあげつらう。確かに、それはわかりやすいが、それでは事実を隠しているのと変わらない。事実を丹念に拾い出すことこそが歴史の流れを明らかにすることである

複数の視点を持て

 たとえば「テレビがなくては生きてはいけない人」のために」では、「Thirのはてな日記」の「テレビ要らない」が含意する複数の要素について」の解析から「2011年テレビ滅亡論」の中の複数の視点を洗い出したが、同時に
一方はてなブックマークでは、「テレビ全体」を否定するような書き込みが目立っていることは特筆すべきでしょう。はたして、「テレビ全体」は否定できるものなのか、私はそこに強い疑問を感じます。(「テレビ要らない」が含意する複数の要素について
と指摘する。はてなブックマークのコメントは、「インターネットVSテレビ」論と単純化することで、テレビ否定派=「デジタル批判派」となり、彼らもまた「ノスタルジア軍団」なのである。

 また、「誰も語らない地デジの歴史」でも、はてなブックマークのコメントを読めば、単純にNHK批判になっており、やはり「ノスタルジア軍団」のようだ。

確かに、「誰も語らない地デジの歴史」の中のNHKの取り上げ方は問題かもしれないが、読者はおそらく他のアメリカ系企業をとりあげたところで、何の関心ももたれなかったに違いない。したがって、島会長の行動は、犯罪すれすれではあるが、日本の立場を象徴するいい例であることには違いはないのでとりあげたのである。

それよりも、アメリカ側の過酷な放送規格テストは、結局NHK振り落としが目的であったことは容易に想像できることだ。NHKが、絶えず日本と連絡を取りながらアナログハイビジョンに固執したのに対し、アメリカ側は何もないところから独自のデジタル規格まで作り上げたことは、アメリカの層の幅広さと粘り強さを感じ取れる。そして、たとえNHKへの抵抗という原因があったとしても、デジタル化という大きな流れがそこにあったことは否定できない事実である。

テレビはコンピュータと結びつく運命

 テレビ産業こそ「ノスタルジア軍団」であることは否定できない。そしてテレビ産業が一番恐れていたのは、コンピュータ産業にのっとられることである。一連の「ホームサーバの戦い」シリーズでは、アメリカの家電産業がほとんど衰亡してしまい、アメリカ側が世界に展開するためのホームサーバ戦略がアップルやマイクロソフトなどのコンピュータ産業にゆだねられていることが明らかになった。彼らはテレビをどのようにしたいのだろうか。たびたび引用している「デジタルテレビ日米戦争」から
 インターネットや関連サービスにアクセスするには、これから先もテレビではなくコンピュータがその第一の手段だと、コンピュータ企業は主張している。数百万の米国民にとってそれは本当のことだろうが、パーソナルコンピュータが登場して15年(2001年当時)、米国の半数近い家庭にパソコンが普及した現在でも、それらすべての家庭において、コンピュータが快適に使いこなされているわけではない。使いやすいように次々と改善されてきてはいても、相変わらずパソコンは難しい機械のままだ。

 同時に、米国の家庭の99パーセント以上はテレビを持ち、その使い方を知らない人はほとんどいない。したがって多くの人にとって、デジタルテレビは「情報スーパーハイウェイ」、すなわちWWW、電子メール、その他すべてのものへの簡単で自然な入り口となることが予想できる。


 これらのすべては、もう一つのあまり好ましくない変化とともにやってくる。間もなくテレビとコンピュータの明確な区別はぼやけてくるだろう。それに伴って、コンピュータ世界の病気がテレビ産業にも押し寄せてくるだろう。今までのテレビは、8年から10年、あるいはもっと使うつもりで買われている。そして実際にそのくらい使えた。なんといってもテレビ自体は、30年にもわたってほとんど変わらなかったのだ。しかし、今やテレビはコンピュータのようなものとなり、ほんの2年前に買ったパソコンがすぐに技術的にどうしようもなく古臭いものになるように、テレビも、すぐに古いものとなっていくだろう。新しいモデルはより速いチップ、より大きなメモリ、より高性能なモデム、より拡張性が高いオプションがつくようになるからだ。

 今から3年から5年のうちに確実に、最初のデジタルHDTVの驚くほどシャープな画面上で、株価情報を見たり、ホームショッピングをしたり、ニュースやNCAAバスケットボール選手権を、6チャンネルのサラウンド音声とともに見ることができるだろう。しかし、メーカーがビデオ電話やインタラクティブなポルノチャンネルを組み込んだ新しいモデルを提供しているときに、あなたは自分の古いモデルで満足できるだろうか。

 そして、その最先端のテレビ受像機は数年後、窓にかけられるフラットパネルディスプレイや、好みの番組を即座に選べるような新しいモデルが発表されたときに、やはり古いものとなってしまう。

 また数年後に、立体的なビデオゲームや、今はまだ考え付かないようなとてつもないサービスを提供する次世代テレビが出たとき、それまで最新モデルだった受像機の所有者は、自分のテレビに満足できるだろうか・・・・(ジョエル・ブリンクリー著/浜野保樹・服部桂共訳「デジタルテレビ日米戦争−国家と業界のエゴが『世界標準』を生む構図」アスキー

 テレビのコンテンツはいつも変わるが、受像機は変わらなかった。テレビの未来は、受像機が絶えず変わる未来である。「インターネットVSテレビ」などと単純化できない世界では、「ノスタルジア軍団」はどこへ向かうのだろうか。
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