夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

捏造はなぜ止まらない?

テレビの演出が捏造に変わるとき

 「ねつ造の心理?退屈が怖い」でぼくは、今野勉氏の書いた「テレビの嘘を見破る」(新潮選書) を引用した。
ある釣り好きな作家が、某国の幻の魚に挑むつり紀行番組です。幻の魚といわれるだけであって、なかなか釣れません。滞在期限も迫って、もうダメかと思われた最後の日、遂に幻の魚を釣りあげたのでした。というのが番組の構成ですが、実は取材の初日に、幻の魚は釣り上げられていたのです。

(中略)

こうした構成にしなければ、番組に与えられた一時間とか二時間という長さをもたせることができないという制作者側の自己都合が、同じようなパターンを生む原因であることは確かですが、一方、視聴者側にはハラハラドキドキして最後にカタルシスを感じさせてもらいたいという期待感があって、制作者側はその期待感を裏切らないために、こうした構成にするのだという見方もあります。(今野勉著「テレビの嘘を見破る」新潮選書)「なぜ幻の魚は最終日に釣れるのか」より

 ドキュメンタリーでも、このような構成の作品は多い。ましてやバラエティーならば当然である。「あるある大事典」でも、
われわれは科学番組を作っているのではない。報道でもないんです。われわれは情報バラエティー番組を作っているんです


(中略)

 「あるあるⅠ」「あるあるⅡ」は、まずテーマが設定され、それにふさわしい具体的な事実・真実・知識に焦点を当て、そこから手軽で有用なノウハウを引き出し、提示するという番組である。リサーチも実験も取材も、この流れに沿って進んでいく。

 言い換えれば、意図したテーマから外れたり、テーマに反するコメントや事実はいらないということである。それらは当然のように、切り捨てられる。事実や真実や知識がそれほど単純なものではないことは、いくら強調してもしすぎることはないが、今はそのことはおいておく。要は、テーマに沿った、都合のよいコメントや事実が集められるということである。そうやって編集が進み、番組として仕上げられていく。(調査報告書)

 同じような言葉が、「WaiWai」にもある(毎日新聞の「WaiWai」騒動は、新聞の「あるある大事典」)。
■記者倫理の欠如


 担当記者は「毎日新聞の信用を傷つけてしまうかもしれない」との認識を持ちながら、不適切な記事を頻繁に翻訳し、「元の記事の内容について責任を負わないし、正確さも保証しない」という断り書きを付けることを免罪符に記事を書き続けた。記者倫理を大きく逸脱したものだ。(検証チームの分析——要因 複合的に)

 そこにあるのは「バラエティー番組」とは、「コラム記事」とは、こんなものだろうという思い込みである。それにあわせて番組や記事を作っていくものだから、そこにあるべき事実がなければ、事実を曲げてでも作り上げてしまう。真実を追究したいとか、視聴者や読者にこれを伝えたいというジャーナリズム精神はそこにはない。決して、毎日新聞や関西テレビの命運を自分が握っているという思いも当然なく、その時間を、そのスペースを維持することで何とか食い扶持を保ちたいという後ろ向きの姿勢が感じられる。

過去を学ぶことを放棄したメディア

 ぼくは、毎日新聞の「WaiWai」騒動は、新聞の「あるある大事典(2)のエントリーで、「WaiWai」と「あるある」を結びつけた。その理由は、調査報告書を読んでいたからである。その日は、毎日新聞に例の「おわび」が掲載された日。それまでは、その事実は知らなかった。

 調べれば調べるほど、捏造の構造が似てきている。しかし、多くのブログやメディアを見てもそれを指摘したメディアは皆無だった。つまり、彼らは現在のニュースを追うあまり、過去を調べることをしなかったのである。事件の関係者は当然のこと、それを報道すべきメディアであっても、自分の身に火の粉が降りかかることを恐れるあまり、口を閉ざしている。

 ぼくは、「なぜ過去に学ばないのか」で、

多くのブログはそのときそのときのニュースに反応するだけで、終わっている。過去の事実を調べることなしに。それでは、そのブログは使い捨てといわれても仕方がない。

(中略)

インターネットという、知識の宝庫を前にして、読者に知らせたいと思う情報があまりにも多いので、なぜこれらの知識を利用しないのかと不思議でならない。

 新聞やテレビメディアの財産は過去のアーカイブである。ところが多くのメディアはその豊富な資産を活用することはない。記者やスタッフの育成に、これほど恵まれた環境はないのに。同じように、ブログの多くがインターネットという豊穣なデータ資産を活用せずに現代のニュースばかり追っているのはなぜだろうか。ぼくは、「知識の作法」でこう書いた。
知識はそのときに書いてしまわないと、忘れてしまう。むしろ、書けば書くほど自分のものになる。ひとつの知識を見つけると、次の疑問がわく。その疑問をたずねて新たな知識を得ることが楽しくて仕方ないのである。したがって知識は使わなければ消耗する。使えば使うほど成長する
 ぼくの文章は牛の反芻と同じように、何度も何度も過去の記事を引用することで、知識を身につけている。メディアも過去の知識から学ばない限り、捏造は止まらないだろう。
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