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素人だから言えることもある

現代社会に完全なプライバシーなどは存在しない

検索とStreet Viewとプライバシー

 GoogleMapのStreet Viewの訴訟の記事が載っていた。
グーグルが裁判で反論、現代社会に完全なプライバシーなどは存在しない

グーグルが提供している無料の地図情報サービス「GoogleMap」の付加機能の一つとなる「Street View」で自宅内に居る模様の写真画像がネット上を通じて公開されてしまったとして、このような行為はプライバシー侵害にあたるとして米ペンシルバニア州在住の男女が同社を訴えていた裁判で、グーグル側は「現代社会にプライバシーなどは存在しない」とする反論を行っていたことが31日、明らかとなった。

 裁判の中でグーグルは「衛星技術の進歩を受けて、現代では砂漠の真ん中に居たとしても完全なプライバシーなどは存在しない」と述べて、「Street View」の機能はプライバシー侵害だとした原告らの主張に対して反論を行った。

 実は、グーグルのCEOのシュミット氏の発言を思い出した。「グーグルの語る地球監視社会」で、一部を引用した。
 同氏は「人々は、記録が残る世界で生活しているということについて、今よりもはるかに注意深くなるだろう」と述べた。いたるところにカメラがある、ということにも気を配る必要があるだろう。Schmidt氏は「常に、何らかの形でメディアに露出していることになる。誰もが携帯電話を持つようになり、携帯電話にはカメラがついているわけだから、誰もがカメラを持っているということになる。誰もがデジタル写真のカメラマンなのだ」と説明した。

 そういった情報の中には、誤報が含まれていることが避けられない。Schmidt氏は、ネット上の伝説を暴くことだけを目的としたウェブサイトが作られるという現象に言及しつつ「有権者は、今よりもはるかに、目にしたことを信用しない傾向になるだろう」と断言した。同氏は「教育が変わり、大学の学生と、理想を言えば高校の学生も、情報革命を利用して情報の偏りを修正する方法を教わるようになるだろう」と述べた。(グーグルCEO、新メディアとその政治的影響を語る)

 検索するということは、ある面では、他人のプライバシーを暴くことである。なぜなら、その人物のことを書くのは、本人ではなく、知人だからである。ユーザーはまずその人を知りたいと思う。そこでグーグルを検索して情報を得る。顔を見たいと思えば、画像検索を使う。動いてる姿を見たいと思えば、YouTubeを検索する。どこに住んでいるか見たいと思えば、GoogleMapやStreet Viewが役に立つ。Street Viewなんかいらないと思っても、使いたいという人がいれば必ず普及する。なぜなら、グーグルは強大な知識を持つ魔法使いならぬアルゴリズムのジニーであるからだ。ご主人様のためにせっせと情報を集める。彼は人間じゃないから、決してご主人様を裏切らない。ご主人様は、自分のプライバシーにはうるさいが他人のプライバシーなどは気にかけない。ネット社会とは、自分の顔を隠しながら他人を覗く社会なのである。

 神戸大学工学部の森井昌克教授がこんな文章を書いている。

プライバシーの終焉と個人情報保護

個人情報の流出にとって大きな問題は、その流出自体ではなく、その流出から導出される個人のプライバシーの漏えいである。さらに複雑化させる要因は、そのプライバシーの真偽に関して何の保障も無く、顕在化することである

 そもそもプライバシーとは空間を共有することに対峙する概念であった。場(社会的空間)を仕切ることによって、自分と自分以外の者に対して、情報量的格差を設ける概念である。かつて高度情報化社会と呼ばれたユビキタス社会では、よく言われるように「空間と時間」を超越した社会であり、この情報量的格差を維持することが非常に困難なのである。

 今までは、検索はある程度の答えを思い浮かべて検索していたと思う。ところが、他人のプライバシーは想像することもできない。そうなると、それが真実であるか、虚偽であるか判断することが不可能になる。その上、人間というのは、そのプライバシー防御のために偽のプライバシーで飾っているかもしれないのだ。たとえば、冒頭のシュミット氏の発言「有権者は、今よりもはるかに、目にしたことを信用しない傾向になるだろう」ということこそが「そのプライバシーの真偽に関して何の保障も無く、顕在化することである。

グーグルとホリエモンの共通点

グーグルの検索はアルゴリズムであるから恣意的ではないとはよく言われることだ。恣意的とは、人間が介在しないことである。ニュースを市場原理に任せたらどうかといった人物がいる。フジテレビを買収しようとしたホリエモンである。
 ライブドアは、「市民記者」を募集し、自らのサイトのニュースに自前の記事を載せ始めている。その規模を拡大し、既存メディアの情報も取り込みつつ、ニュースサイトを充実させていくつもりだという。そして、新聞を発行し、そこでアクセス数が多い記事を紙面に載せていく。人気のある記事は大きく扱い、そうでないものは載らない。その扱いは、もっぱらサイトの読者の人気ランキングにより、新聞社の価値判断は一切入れない。

人気がなければ消えていく、人気が上がれば大きく扱われる。完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけ

 そうなれば、確かに新聞社の意図的な情報操作はできなくなる。その一方で、埋もれていた記事の発掘、少数者の声などは表に出てこない。が、堀江氏は「いいじゃないですか、それで。そういうもんじゃないですか、情報って」「読者の関心が低いゴミみたいな記事を無理矢理載せたってしょうがない」と頓着しない。(「新聞・テレビを殺します」 〜ライブドアのメディア戦略江川紹子ジャーナル)

 そこには、ジャーナリズムも人間もない。グーグルの言う、アルゴリズムに任せるということはそういうことではないのか。佐々木氏の「ネット未来地図」にこのような発言に対して、
 経済合理性の観点からメディア戦略を構築しようとしているだけで、言論・報道機関を言論性でなく、むしろそうした色あいをできるだけ薄めた情報娯楽産業としかみていないのは驚くべきことといわなければならない。

 だが堀江前社長の一連の発言からは、現代のジャーナリズムが内在している問題点が浮かび上がってきているのも事実である。彼の発言はたしかに極論に過ぎるように思えるが、しかし「言論・報道機関を言論性でなく」「情報娯楽産業としかみていない」のを、なぜ産経新聞は不愉快と感じるのであろうか?そもそも新聞を、情報産業というビジネスを展開する企業として自己認識しているのであれば、このような反論にはならなかったはずだ。(佐々木俊尚著「ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点」文春新書)

 ホリエモンは邪悪であるから裁かれた。グーグルは「邪悪にならない」けど訴訟されている。しかし、どこか考え方が似ているのはなぜなのだろう。やはり、どこかに「人間不信」があるのではないか。

森井教授が言うように、プライバシーとは、「自分と自分以外の者に対して、情報量的格差を設ける概念」である。ところが、グーグルは「現代社会に完全なプライバシーなどはない」という。つまり、自分と他人を分けるべきプライバシーが存在しない世界がもう既に到達しているということなのだろうか。あのボカされた顔こそがそれを象徴しているのかもしれない。
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