夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

忙しいことはそんなによいことか

VTR手法を持ち込んだ24時間テレビ

 日本テレビの24時間テレビを見ていると、それぞれのコーナーの終わりにクライマックスが来るように、すべてのコーナーができていることに気づかされる。たとえば、マラソンがそうだ。あらかじめ、時間内に到着されるように出発点が決められているのである。本来、生放送では、何が起こるかわからない、ドキドキ感があるはずなのに、それを押し殺しているのである。いわば、水戸黄門の印籠のように。

 僕は、「捏造はなぜ止まらない?」で引用した、

ある釣り好きな作家が、某国の幻の魚に挑むつり紀行番組です。幻の魚といわれるだけであって、なかなか釣れません。滞在期限も迫って、もうダメかと思われた最後の日、遂に幻の魚を釣りあげたのでした。というのが番組の構成ですが、実は取材の初日に、幻の魚は釣り上げられていたのです。

(中略)

こうした構成にしなければ、番組に与えられた一時間とか二時間という長さをもたせることができないという制作者側の自己都合が、同じようなパターンを生む原因であることは確かですが、一方、視聴者側にはハラハラドキドキして最後にカタルシスを感じさせてもらいたいという期待感があって、制作者側はその期待感を裏切らないために、こうした構成にするのだという見方もあります。(今野勉著「テレビの嘘を見破る」新潮選書)「なぜ幻の魚は最終日に釣れるのか」より

のようなVTRでよく使われる構成方法が生放送で使われているのはなぜだろうか。僕は、「ねつ造の心理?退屈が怖い」の冒頭で
 今、テレビ業界にはやっている病気、いや日本中に蔓延している病気がある。それは「退屈が怖い」という病気だ。彼氏になる条件が「笑わせてくれる人」だったり、子供も大人もじっと我慢する時間がどんどん短くなっている

 「テレビ報道論」(田宮武著・明石書店)で、田宮氏はイギリスの演劇評論家であるM・エスリンの言葉を紹介している。

「本質的には演劇的なメディアであるテレビは、はじめからその本質に基づく特別の要請によって、ドラマチックで、感情的で、個人的な内容をもつ素材に力点を置かざるを得なかった。(中略)ニュースもドキュメンタリーも政治番組も含めて、すべての番組が最終的には娯楽的価値によって判断される」(「テレビ新時代」国文社)

 だから、それぞれのコーナーはドラマチックに構成されても、分断されることで、ちぐはぐになってしまっているのか。僕なんか、むしろ、24時間リアルタイムで海外旅行してくれるほうが楽しいと思うのだが。結局、毎回同じような番組しか作れないTVよりも。

何のために働くか

 私たちは、なぜか忙しいことがよくて、暇なことが悪いと思っている。だから、平日の昼間に外を歩いていると、「あの人、仕事がないのかしら」などと思われるらしい。仕事が忙しいことで、金をため、将来は優雅に暮らせると思っているからだ。でも、そんなことはないだろう。

 ぼくは、「責任感が強い人ほど長生きできない日本のシステム」でこんな小話を引用した。

南太平洋にこんな小話があります。先進国の人があくせく働いているのを見て、南太平洋の住民が聞きます。「なんのためにそんなにあくせく働くのか」と。

すると先進国の人間は「こうしてカネをかせぐのだ」と答えます。

南太平洋の住民は「そんなにカネを稼いでどうするのだ」と聞きます。

先進国の人間は「こうやってカネを稼いだら、そのカネで毎日海に来てゆっくり過ごしてやるんだ」と答えます。

南太平洋の住民はいぶかしがりながらさらに聞きます。「我々はカネを稼いでいないが、毎日海に来てゆっくり過ごしているぞ。そのままこの生活に加わればいいじゃないか」とオチがつきます。(「世界から貧しさをなくす30の方法」田中優ほか編

 日本人は理想と現実を立てわけ、理想のためにまっしぐらに働いている。しかし、理想が実現したら、退屈でたまらないに違いない。なぜ、現実を理想と同じにしないの? 日本人はどこかで方向を見失っていたのかもしれない。(「責任感が強い人ほど長生きできない日本のシステム」)

「忙」も「忘」も、心がないこと

 理想の時間の使い方を考えていくと、僕は、ミヒャエル・エンデの「モモ」(岩波書店)を思い出す。
「時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味がありません。というのは、誰でも知っている通り、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、逆にほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活はその人の心の中にあるからです」(ミヒャエル・エンデ著「モモ」岩波書店

 「時間」には、時計で測れる「外的時間」と心で感じる「内的時間」がある。例えば、嫌いな友達とは短時間でも話すと「内的時間」は長く感じるし、好きな友達とはどんな長時間であっても「内的時間」は短い。「内的時間」には、好き嫌いや興味、やる気、好奇心、生きがいなど心理的なものが影響しているのがよく分かる。たとえ「外的時間」が不足していても、「内的時間」が充実していれば、それほど「時間が足りない」とは感じないはずだ。

 問題なのは「内的時間の不足」を「外的時間」の不足と取り違えて、余暇を増やせばよいと単純に考えることだ。「時間が足りない」の自覚症状は、実は人々にやる気や好奇心が消え失せつつあるということなのである。(「時間が足りない」)

 そしてエンデは、「三つの鏡」(朝日新聞社)で、
 私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学びなおさなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる河合隼雄・ミヒャエルエンデ「三つの鏡」朝日新聞社
 エンデは、「時間とはすなわち生活」であり、その「生活はその人の心の中にある」という。時計で測れる外的時間ではなく、心の中にある内的時間の充実が必要だというのだ。あらためて、「」と「」の字を見てもらいたい。どちらも、「亡」という字に「心」の字がくっついている。
 あまりにもいそがしいと、息つく間も、考える暇もなくなってしまう。そういう状態をなんというか。それを「」という。いわば、心から心が消えてなくなってしまう。いそがしいとそんな具合になる。それを表しているのが「忙」という字である。
 いっぽう、同じように心が消えてなくなるのだが、覚えていたことが心の中から消えてしまうことを言うのが「」の字である。「りっしんべん」が付くか、下に「心」が付くかで、意味が違ってくるわけである。(ハルペン・ジャック「漢字の再発見」詳伝社
 日本人は、忙しいことを尊ぶのをやめて、心の中に充実した内的時間が必要なのではないか。おそらく、視聴者は、24時間テレビから何かを学ぶことはできるだろう。だが、再び日常生活の多忙な生活に戻ったとき、何を覚えているのだろうか。
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