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素人だから言えることもある

「あなたとは違うんです」首相の存在感

あなたとは違うんです大流行

引退記者会見の福田首相の言葉をまとめてみる。

——一般に総理の会見が、国民には人ごとのように聞こえるというふうな話がよくされておりました。今日の退陣会見を聞いても、やはり率直にそのような印象を持つのです。安倍総理に引き続くこういう形での辞め方になったことについて、自民党を中心とする現在の政権に与える影響をどんなふうにお考えでしょうか。

福田 現在の自民党政権、自民党公明党政権ですか。それは順調にいけばいいですよ。これに越したことはない。しかし、私の先を見通す眼の中には、決して順調ではない可能性がある。そしてまたその状況の中で、不測の事態に陥ってはいけない、そういうことも考えました。人ごとのようにというふうにあなたはおっしゃったけれども、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたと(は)違うんです。そういうことも併せ考えていただきたいと思います。

この「あなた」とは誰かについて考えてみた。

(1) あなたとは、中国新聞社の記者?

 そしてこの質問をした中国新聞の記者が「記者手帳」でこう書いている
【記者手帳】首相の辞任会見に思う 「総理の会見は国民には『人ごと』のように聞こえる。この辞任会見も」。一日夜、福田康夫首相の辞任会見で、そんな質問をぶつけた。首相は「私は自分を客観的に見ることができる。あなたとは違う」と気色ばんだ。生意気な質問だという指摘を受けるかもしれないが、あえて聞いておきたかった。

 昨年十月、米民主党のオバマ上院議員が大統領候補指名を争う中、「米国は核兵器のない世界を追求する」と発言した。首相はどう感じたか、夕方の「ぶらさがり会見」で尋ねた。返答は次のようなものだった。

 「そりゃ、そういう世界が実現すれば、それにこしたことはないと思います。まあ、いずれにしてもですね、核兵器を保有する、その競争をするような世界では、あまりよくないと思いますけどね」。被爆国の首相の言葉としては、あまりに物足らなく感じた

 福田首相は確かに自身の置かれた状況を客観視し、慎重に発言する人だと思う。しかし、それだけでは務まらないのが首相の重責だろう。国民に自身の明確な意思を伝える必要に常に迫られている。辞任会見を聞きながら過去の取材経験がよみがえり、どうしても聞かずにはおれなかった。(東京支社・道面雅量

 一見すると中国新聞社の記者は、広島ということで、日頃から被爆問題を取り上げていたのかもしれない。そのため、首相の、学者のような客観的な発言は、あまりにも物足りなく思っていたのかもしれない。しかし、このような辞任会見が一記者に対する、単なる意趣返しだとは到底思えないのだ。

(2) あなたとは、国民?

 次に、辞任会見の記者会見場にいるすべてのメディアを通して国民に対して語った言葉か。日経ビジネスオンラインで“殿様”にはなれない日本の首相で、細川元首相婦人とのインタビューが載っていた。
 細川佳代子 私は、今の政治の世界の内情については、全く分かりません。ですから、福田さんがなぜ辞任を表明されたのかについては、語ることはできません。何も知らない人間があれこれ想像で言うのは、それこそ無責任だからです。

 ただ今回の辞任で1つ言えるとしたら、また同じようなことが、今後も起こり得るということです。今の日本の首相は、常に足を引っ張られる存在だからです。何をしても、褒められるよりも批判されることの方が多いのです。

 というのも、首相になりたいと思う政治家は多いですから、野党に限らず政権を支える与党の中からも、いつか追い落としてやろうと、狙われている存在です。日本の首相は権力があるようで、実は大して持っていないのです。

(中略)

—— 日本の首相は、ご主人とは別の意味で殿様のようになれませんね。意志を貫き、強いリーダーシップを発揮するような。

 細川 日本は、強いリーダーを育てるような環境にありません。能力のある人をつくっていくという暖かい眼差しがないのです。マスメディアも国民も、褒めるよりも批判ばかりで、足を引っ張ることばかり。これでは強いリーダーが生まれるはずがありません。政界、財界とあらゆる社会で人物が小粒になってきていると言われるのは、こうした日本の風土と無縁ではありません。

(中略)

 今の日本に閉塞感があるのは、夢や目標に挑戦せず、できることしかやらない人が増えているためです。魂の抜けてしまった人が多くなったのは、教育が知識の詰め込みばかりで、何かに感動したり、他人の痛みを感じることを学ばせなくなってしまったからです。知識偏重になったのは、企業中心、経済中心の社会になったため、効率ばかり追い求め、一人ひとりの人間にスポットが当たらなくなってしまったことも影響していると思います。

 つまり、『何でも批判する』あなた方マスコミや皆さん(国民)とは違うんですよということである。しかし、違うんだけど、その行動は取れなかった。「私は自分自身を客観的に見ることができる」という特殊能力を持っていた福田首相でも、その能力ゆえに首相を投げ出さざるを得なかった。それなら、その能力を持たない人に首相を任せたらますますどこへ行くかわからないではないか。できたら褒める、できなかったら叱るという教育の前に、まず周りのメディアによって「日本の首相は、常に足を引っ張られる存在」であり「何をしても、褒められるよりも批判されることの方が多い」のであるからだ。これでは、思い切ったことはできないし、首相として活躍する場が与えられないのである。

賞賛されないスーパー・ヒーロー

最近、公開中の映画「ダークナイト」「ハンコック」のスーパー・ヒーローたちは、いずれも社会から疎外されて、自分の存在意義について悩むヒーローたちだ。

 ダークナイトバットマンは、宿敵ジョーカーにこうののしられる。「お前はバケモノだ。世間のつまはじき者だ」また、ハンコックは町の住民から「くず野郎(Ass Hole=尻の穴)」と呼ばれる。

 彼らは、悪を退治するのだが、そのたびに町中の建物に相当な被害を与えるのである。「ダークナイト」では、バットマンは、デントという社会派弁護士の登場で、暴力を使わないで悪を退治できるのなら、自分は引退しようと考える。

また、ハンコックは、少々、やりすぎなので、むしろ、彼がいないほうが住民にとってありがたいと考える。いわば、メディアによって「何をしても、褒められるよりも批判されることの方が多い」存在となっている。そうなると、彼らは、自分の存在意義に疑問を持つことになる。別に俺がいなくたっていいじゃない。もちろん、映画だから、それでは終わらないし、最後には彼らが活躍してめでたしめでたしとなる。

 日本の首相も、映画のスーパーヒーローと同じく、世界でただ一人の最高権力者である。しかし、活躍の場が与えられないために、どのようなスーパー能力を持っていても、それを使えないという現状にある。どれほど優れた人材であっても、まわりでそれをつぶすような社会では、「あなたとは違うんです」といってみてもむなしいだけかもしれない。
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