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素人だから言えることもある

まじめに働く時代は終わったのか

 ぼくは前項「私たちには妄想が欠けている」で、ユニークな商品が登場する理由のひとつに、ビジョンを掲げて邁進する「バカ者」の存在が必要だと説いた。しかし、私たちは、こんな「バカ者」は資金のある会社のトップにある特権だと考えていないか。それは成功した者をイメージして作られた虚像である。よくあの(売れている、自分好みの)物を作っている会社に入りたいと希望する。しかし、アイデアには、貧富の差はない。どこかに「自分のアイデアなんて」と自己卑下した感情が表れている。結局、その会社に入っても、結局はあの(売れている、自分好みの)物と同じような二番煎じのものしか発想できなくなっている。どこかで思考停止しているのだ。

なぜ考えない人間が生まれたか

 私たちは、叩かれ批判されることを恐れている。会社のトップに叩かれると自分はこの会社に向いていないのだと思ってしまう。だから、トップの趣味志向を調べ、それに合わせていこうと考える。そうなると、いつもオドオドして、自分の考えにますます自信が持てなくなる。一方、トップは若造に批判されることを嫌う。俺が苦労して作り上げた会社を壊そうと思っているに違いないと。守りに入ると、周りにはイエスマンばかりをはべらせ、いざというときに忠告してくれる人間は誰もいなくなる。社員のほうも、ただ、馬車馬のように働けばなんとかなると思っているか、すでに会社の未来を捨てて他の仕事を探している。

 ぼくは、「腐った饅頭は捨てるだけでよいのか? 」でこう書いた。

 今、日本中の社会でモラルの低下が叫ばれている。あちこちで腐った饅頭がこっそりと捨てられている。だが、腐った饅頭を生み出した構造に目を向けなければ、この国はどんどん体力を失わせているのと同じではないのか。

 会社を人間の体にたとえれば、腐った饅頭は動脈硬化と同じだ。体のあちこちに動脈硬化ができて現場に血が通わなくなっている。現場に使い捨ての非正規社員を 当て、管理職にのみ肥え太った会社ではいつ脳出血で倒れてもおかしくない。現場にこそ、力を注がなくてはならないのだ。そうでなければ、その会社自身が 腐った饅頭となって捨てられるのが落ちである。

 考える人間こそが、血の通った会社を作る。その考える人間を放り出し、考えない人間ばかりで作り上げた会社の何の不気味なことか。

 工学院大学畑村洋太郎教授は、「失敗学」のすすめでこう言う。

畑村 (前略)こういう言い方をするのは初めてなのですが、形を変えて捉えると、広い意味でみて「コミュニケーションがおかしくなっている。断絶している」と感じます。

——コミュニケーションがおかしくなっている原因は何でしょうか。

畑村 身近な例だと、正社員の代わりに派遣社員やパートタイマーを雇用すること、仕事のある部分を外注に出すこと、そして企業を分社化することなどです。これらは一見コストダウンのように見えますが、その金額に見合うよりももっと大きな“潜在的な危険=リスク”を金額に換算しないから、コストダウンのように見えているだけです。

 派遣社員やパートタイマー、外注が増えれば増えるほど、企業のトップやプロジェクトのリーダーが考えていることや決めたこと、他社や消費者が考えていることなどが伝わらなくなります。上司が部下に伝えたつもりでも、何段階かいくと変質したり消えてしまったりして、企業が本来行わなければならないコミュニケーションが、ぶつ切れになる怖さがあるのです。コミュニケーションが不足・断絶した状態で業務を推進すると、結局は何かしら失敗が起こり、企業は莫大なコストを払うことになります。(「失敗学」のすすめ

 畑村教授は、現在のシステム依存によって人間は“縮退”しているという。
——ほかに「失敗学」から見て最近気になることがありますか。

畑村 これもコミュニケーションの一種といえますが、人とシステムの関係もおかしくなっていると感じます。人とシステムの間にも、やりとりしなければならない情報はたくさんありますが、人々の多くは情報を狭い意味でしか捉えていないという感じがします。情報をやり取りするということが本質的にどういう意味を持ち、自分が何をしなければならないのかを、きちんと考えている人はほとんどいません。だから日本の社会全体で、ものすごい退歩が起きています。人間が致命的にダメになる状況、“縮退”へと急激に進んでいるのです。

——“縮退”のわかりやすい例をあげてください。

畑村 わかりやすい例としてカーナビゲーションがあります。カーナビを使うと何が起こるかというと、第1段階はドライバーが道や地図を覚えなくなる。第2段階は自分の頭の中で経過の選択をしなくなる。第3段階は、この経路を通ったときに何が起こりうるかをあらかじめあらかじめ想定できなくなる。カーナビより自分の方が経路をよく理解しているのに、カーナビは「経路の訂正」を求めます。カーナビへの依存が続けば、カーナビがないと運転できないドライバーが増えてくると思います。

(中略)

 社会の中では便利になったと称して、実は人の頭脳を“縮退”させてしまっているという恐ろしい事柄がたくさんあります。人間は横着ですから、サポートがあると必ずサポートを前提に行動するようになります。だから物事が進歩・発達しているといっても、果たして本当に進歩かどうかは、根元の問題をよく考えてみないとわからないのです。(「失敗学」のすすめ

 畑村教授は最後にこんなことを言っている。
 日本の社会でいちばんいけないのは、「出る杭は打たれる」ということ。チャレンジする人を、皆で見せしめにしてしまうのです。そうすると、次にチャレンジする人がいなくなってしまいます。国民の多くがそうした社会を願っていないのに。一部の人がそうした社会を作ろうとしているように見えますね。

 事業の失敗は、社会全体で見たときには「許される失敗」、「許すべき失敗」なのです。日本もアメリカなどのように、失敗に学んだ経営者が再チャレンジできる社会に早くならなければいけないと思います。(「失敗学」のすすめ

考える人間こそが必要な時代

人の能力はキャリアで判断される。だが、その人が何を考えているかを判断する会社はまずない。たまに、面接でそれらしい質問が出ても、あらかじめマニュアル(想定問答集)があるし、面接官は受験者がユニークであればあるほど、その会社の許容範囲を超えてしまう。だが、今必要なのは、そこそこの能力で考えない人間よりも、その会社の危機のときにちゃんと考えてくれる人間なのだ。だが、面接現場でそれを求めることは不可能である。いざというときは、いざというときでなければ発揮できず、あらかじめ想定された行動をそのときするかどうかはわからないのである。

 ぼくは、「私たちは、インターネットで引き起こされたパラダイムシフトの真っ只中にいる」で、レッド・オーシャンからブルー・オーシャンへと移行することが必要だと説いた。まじめに働くことも当然だが、考えることも必要なのだ。
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