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素人だから言えることもある

ノーベル賞受賞者の嘆き〜40年前の「断絶の時代」を読む(2)

 日本人のノーベル賞受賞者が相次いでいる。しかも、応用科学よりも基礎科学の分野である。受賞した理論はすでに何十年も前だというケースが多いのが不思議だ。最初のアイデアから考えるともっと長い。「断絶の時代」にはこんな文章がある。

 今日、知識は速く技術に転換できるようになったとされる。そのようなことを示す証拠はない。逆に、知識を技術に転換するために必要とされる時間は長くなっている。今日では、かつて電波についてのハインリッヒ・ヘルツの発見が、20年を経ずしてマルコーニの無線通信に転換されたようなことは起こらない。知識と技術の間のリードタイムは、今日では30年から40年である。そのうえ、技術を採算のとれる製品や生産プロセスに発展させるために必要なリードタイムも長くなっている。

 短くなったものは、製品や生産プロセスの導入から普及までの時間である。半世紀前までは、製品や生産プロセスが広く受け入れられるには相当の時間を要した。至上稀な速さで世界に広まっていった電球、電話、電車は例外として、製品や生産プロセスが国境を越えるには、5年から10年かかった。今日では、2、3週間せいぜい2、3か月を要するだけである。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)

 40年前の話だから、現在では製品発表から世界普及までインターネットで即日発売が可能である。ところが、基礎科学の分野は今回の場合、ノーベル賞クラスでは受賞まで数十年かかる。たとえば、今年ノーベル物理学賞を受賞したシカゴ大学名誉教授の南部陽一郎氏や小林誠高エネルギー加速器研究機構原子核研究所元所長)と益川敏英京都産業大学理学部教授、元京都大学基礎物理学研究所所長)の扱った自発的対称性の破れの「小林・益川理論」は1973年ノーベル化学賞の米ボストン大名誉教授下村脩氏の「緑色蛍光タンパク質」は1960年代に発見されている。
 しかも、この4人のうち2人はアメリカに在住している。基礎科学という分野が日本で何十年も地道に続けられる環境がないと、結局頭脳流出という結果になるのだ。読売新聞にこんな記事があった。
頭脳流出組、相次ぐ受賞…南部氏は「米国人」報道まで

 7日にノーベル物理学賞受賞が発表された南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授(87)に続き、8日の化学賞も米国を研究の拠点にしていた下村脩・米ボストン大名誉教授(80)に決まった。

 いずれも戦後、若い時期に米国に渡り、研究の場とした「頭脳流出」世代。これまでにもノーベル物理学賞を受けた江崎玲於奈博士(83)や生理学・医学賞の利根川進博士(69)らが米国発の成果を生み、世界で評価された。

 こうした頭脳流出にはいくつかの理由がある。彼らの多くはすでに80歳代。海外研究を決意した1950〜60年代当時、日本と米国は、豊かさや研究環境などで圧倒的な違いがあった。また、欧米主導とされるノーベル賞の世界では、欧米に集中する有力拠点で成果を上げ、主要な国際科学誌に論文が載ることが必須条件となる。そのためには、共同研究者にも著名なパートナーが必要だ。

 日本人3人が受賞を独占した前日のノーベル物理学賞について、米ニューヨーク・タイムズ紙やロイター通信などの欧米メディアは、「日本人2人と米国人1人が受賞」と報じた。

 「米国人」とは、米国籍を取得した南部さんを指すが、それは頭脳流出が持つ意味を象徴する。日本人が米国の有力機関で、研究費の獲得から人事にいたるまで、米国人と肩を並べて独創性を競い合う。「出るくいは打たれる」の日本的風土とは違う、その自由と厳しさが、研究を一級品に磨き上げたともいえる。

 米国はその点、研究者に優しい国であった。彼らに言わせれば、現在は米国も厳しいという。金融危機の今、もっと厳しくなるだろう。基礎科学研究の分野にも成果主義が来ているのだ。「断絶の時代」にこうある。
そしてさらに辛い問題が、優先順位の問題である。すでに知識の探究は資金的な限界にある。使える資源に限りがある。しかし本当に不足しているのは金ではなく人である。そしていま新しい知識を生み出せる人たちの供給が尽きようとしている。自然科学、医学、社会科学、人文科学などあらゆる分野において、一流ならざる人材まで動員しなければならなくなった結果、研究の成果が上がらなくなっている。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)
 確かにそうだろう。最近の若者は苦労をしなくなったと言う。何十年も、とことんそれを追求していく、しつこさがなくなってきた。インターネットで簡単にあらゆる情報が手に入る時代では、一心不乱に研究にのめりこむのは難しい。むしろ、こっちのほうが楽なんじゃないかと考えてしまう。そして、現実に、もっと簡単に金を稼げる手段があるからだ。たとえば、地方の医者不足がそうだ。たとえば、「趣味の生活」・ある産婦人科医のブログには、
  また現代の‘楽して儲けたい’という風潮の中、人手不足でハードな勤務医生活に見切りをつけて、ビル診で開業する医師も増え、特に患者に人気の高い女医に 多い。今の風潮が続き、皆開業してかつ分娩を取り扱わなくなると、なお一層産婦人科医勤務医の減少につながる。ただこの流れは避けられそうにない。

  昔は、手術等で技量のある医師はそれを誇りにして仕事を続けていたが、最近のように医療ミスばかりマスコミで取り上げられ保身的医療に追い込まれると、手術自体がストレスの対象となってしまう。そうして技量のない医師のみならず、優秀な医師まで手術を手がけない開業をし、盛業を目指すこととなる。これは非常に惜しまれることである。

  今日ではどんな職業でも聖域というものがなくなった。どんな専門家の領域でもプロ意識・倫理観が欠如しつつあるように思われる。実際には良心的な医療を行っている医師は多いのだが、それだけではやってられないのが現状である。(女性のからだ その9−産婦人科医不足)

 こうやって人はしんどい仕事を避けていく。それなら、これこそ一流の研究者という目印はないのか。それがわかれば、その研究者に十分な金を掛けることができるのだが。「断絶の時代」では、こういう。
 傑出した仕事をする者を事前に知る方法はない。実際に仕事をさせるしかない。逆に最も頼りにならない方法が学校の成績である。歴史には学校の成績は悪かったが、知的な偉業を成し遂げた偉大な人たちが大勢いる。ウィンストン・チャーチルゲーテがそうだった。歴史では学校の成績は優秀だったが、人生では何もできなかった人たちのことは何も出てこない。

 知的な能力も他の能力と同じように分布する。確率的に分布する。したがってより多くの人間に知識を習得する機会を与えるならば、それだけ多くの知的なリーダーを得られる。

 高等教育と大衆教育は対立する概念ではない。質の高い人材を大量に手にするためには大量の人間に教育を与えなければならない。知識労働のための有能なフォロワーを大量に手にするためだけでなく、一流のリーダーを大量に手にするためにも大量の人間に最高の教育を与えることが必要である。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)

 ノーベル化学賞を受賞した下村氏は、
人間は若いとき、ひとつは面白いことにあたる。それをやり遂げることが大事。困難があっても、乗り越えていかないと成就しない。近頃の若い人は、気軽にできる研究を選ぶ傾向があるように思う。興味があったら難しくてもどんどんやる。ギブアップしないでやり遂げてほしい。(読売新聞10月9日)
 もちろん、自分で満足した研究をしたつもりでも、ノーベル賞が取れるとは限らないが。

追記 NBオンラインに「日本にノーベル賞が来た理由」というコラムがあった。そこには、なぜ、日本に一挙にノーベル賞が来たかの裏話が書いてあった。

 益川さんが「自分はちっともうれしくない」と言われますが、その背後には、今日の核子物理学の主要なデザインを構想し、小柴—戸塚のニュートリノ振動も予言しながら、やはりノーベル賞を受けることなく40年前に亡くなった坂田先生以来の蓄積が存在しているのです。

 科学は決して一人の力でできるものでなく、多くの人の協力で成立するものです。と同時に、科学は多くの人の才能を伸ばすことで成立し、ちょっとでも出すぎた杭があると叩きつぶすことに汲々とする日本の風土は、クリエイティヴなサイエンスを育てるのに、極めて不向きです。ノーベル賞が出た、というと「母校」や「ゆかりの大学」がお祭りをしたり、後追いで「文化勲章」など急ごしらえで出すことを相談しているらしいですが、なぜ人々は日本から頭脳流出せざるを得なかったのか、そういう観点はノーベル賞お祭り報道の中で全く顔を出しません(このことは現役の東京大学教員としても、声を大にして強調したいと思います)。

(中略)

 本当に日本が誇るべきことは何か? そして、世界でモノが分かっているひとたちは全員知っている事実は何なのか? それは、今年のノーベル賞の表層だけでなく、その背後で結局、ノーベル財団が「授賞すること=顕彰することが出来なかった」ニュートリノ振動という、完全に日本産の大業績の、ノーベル授賞業績表からの「喪失」にたいする配慮と思います。(伊東 乾の「常識の源流探訪」日本にノーベル賞が来た理由 幻の物理学賞と坂田昌一・戸塚洋二の死)

 おそらく、このノーベル賞報道もオリンピックと同じく、一時のブームに終わるだろう。だが、その影で地道な努力を続けている人に対する温かい目を築いていかない限り、頭脳流出は止まらないだろう。
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