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素人だから言えることもある

ブログ・ジャーナリズムは誕生するか

ジャーナリストは盗用する?

 「読売新聞「新聞が必要 90%」の謎」で、ITジャーナリストの小寺信良氏の記事を引用して、新聞記者がYouTubeを見て書いているという話を書いた。そして、小寺氏の
新聞記者というのは足で歩いてコメントを拾って歩くものじゃないの?新聞記者の記事が、それでいいの?
という言葉も引用した。

 この(1) 新聞記者は盗用する(2) 新聞記者は足で書くは、まったく正反対だが、実は日本の新聞記者においては当たり前に成立しているのだ。というのは、フリージャーナリストの上杉隆氏の「ジャーナリズム崩壊」(幻冬舎新書)を読んだとき、こんな箇所が出てくる。

 そうした欺瞞は「一部週刊誌」という言葉に顕著だ。日本には、スクープを連発し、極めて影響力のある雑誌が存在する。その名を「一部週刊誌」という。たとえば、こんな具合だ。

 宮崎県の東国原知事が自宅マンションに連日女性を泊めていると一部週刊誌が報じたことを問われ「わたしの家は支援者、後援会、友人、知人いろんな方が出入りしている」と答弁した。(産経新聞/2007年2月26日)

 もちろんこれは、「一部週刊誌」という名の雑誌が報じたものではなく、『週刊現代』という講談社発行の週刊誌の記事を指している。これは決して特殊な例ではない。すべての新聞が長年の習慣として、こうした行為を今なお続けている。

 2007年の新聞記事で「一部週刊誌」がスクープした記事を拾ってみても一目瞭然だ。

 本間正明政府税調会長(当時)の愛人報道は『週刊ポスト』、「発掘あるある大事典�」の納豆データ捏造報道は『週刊朝日』、日本相撲協会の八百長報道は『週刊現代』と、とにかく枚挙にいとまがない。(上杉隆著「ジャーナリズム崩壊」幻冬舎新書)

 ところが、今回の記事、「一部週刊誌」どころではない。いかにも、取材しましたよという記事である。これほど姑息な記事はあるだろうか。
 クレジット(引用先)を隠すこうした姑息な行為は、読者への裏切りに他ならない。そして、こうした見え透いた「トリック」は、結局、新聞自らの信用を貶めることに繋がるだろう。

(中略)

 筆者が日本の新聞雑誌などの活字メディアに寄稿し始めた2000年当時は実に酷かった。

 クレジットを打つか打たないかでたびたび編集者とぶつかったことを思い出す。クレジットを打つことは、その記事を書いた記者への敬意も含まれている。つまらない面子のために、他人の仕事を盗むことなど絶対にするべきではない。

 筆者が引用先を記した原稿を書くたびに、その部分を消してくる編集者と何度同じ言い争いをしてきたことだろうか。

 筆者は、何も特別のことをしているわけではない。他人のものを盗まないのは当然であり、所有物を示すのは立派でもなんでもなく、当たり前のことだからだ。

(中略)

 だが、こうした論理は、彼らには通じなかったようだ。三流メディアの記事を一流メディアが載せてやったんだという露骨な差別意識がそこには働いている。(上杉隆著「ジャーナリズム崩壊」幻冬舎新書)

 ところがこの姑息な手はすぐばれることになる。インターネットが普及して、人々がブログを書き始めると、新聞記事と同じ文章はたちまち検索で明らかになるからである。

ジャーナリストは官僚主義?

 新聞記者はジャーナリストと呼ばれる。ところが、新聞記者ですぐれたジャーナリストであればあるほど、生きにくいという。それは会社(新聞社・放送局)とジャーナリストの板ばさみになることを意味する。
 基本的にジャーナリストとして優れた記者は政治部では生き残りにくい。なぜなら、取材をすればするほど、担当する政治家の不利な情報まで知ることになってしまうからだ。仮に、そうして得た情報を読者や視聴者のために報じたらどうなるのだろうか。おそらく、その政治家は失脚し、同時に記者自身も社内で同じような災難が降りかかることになるだろう。

 このように、政治記者にとって、取材し、優れた記事を出すことは、場合によっては「自殺行為」ともなり得る。こうしたことから政治記者にとって、担当する政治家への批判は必然的にタブーとなり、結果、ジャーナリストであることを放棄し、会社員としての生き方を選択することになる。

 つまり、オブザーバーではなく、政治に寄り添うプレイヤーになっていくのである。

 電話一本で、時の首相や官房長官までをも動かし、NHK人事に介入することが可能だった島桂次記者(のちに会長)や、田中派全盛期に同派を担当した海老沢勝二記者(同じくのちに会長)などがまさしくその典型である。そうした状況は現在でもあまり変わっていない。

(中略)

 彼らは、雑誌や社会部記者が政治家の身辺について取材し始めるのを察すると、すぐにその政治家に情報を与える。ときに、指南役として振る舞い、メディア対応の策を考えることもある。そしてそれでも敵わないとなると、なんとか取材を止めさせることができないか、社内の上層部に働きかけたり、場合によっては直接行動でもって、当の記者に圧力をかけることもあるのだ。

 その種の派閥記者が海外にまったくいないとは言わない。ただ、日本のように、それを記者クラブというシステムにまで昇華させてしまっている国は皆無だということだけは断言できる。(上杉隆著「ジャーナリズム崩壊」幻冬舎新書)

 その具体例について、「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著/野良舎)で高田昌幸氏がこう語っている。
 少し前には、森喜朗首相時代に、記者会見の指南書事件というのがありました。講演で「日本は神の国だ」という趣旨の発言を行い、窮地に立たされた首相が記者会見で釈明することになった。その会見に向け、どうやれば会見を切り抜けることができるかを、首相官邸記者クラブのNHK記者が文書にして、首相側に伝えたとされる事件です。この例など、大手マスコミの立ち位置をよく示していると思います。

 日本のメディアの病気のうち、一番の問題は、この「当局に弱い」「権力に弱い」という部分だと思います。その反対に、弱い者には非常に強く出る。弱い者、弱りかけているものは、それこそ容赦なく叩く。犬は溺れさすことはしないけれど、溺れた犬はいっぱい叩くわけです。私は逆だろうと思うのです。溺れた犬をどうするかは、日本の法律に従って粛々と当局がやればいいわけで、そういう意味ではメディアは強きに弱く、弱きをくじいてますね。

(中略)

 そして、これが一番重要なのですが、何をどう報道するかという肝心な問題を突き詰める前に、「デスクは許してくれないだろうな」とか、「会社の編集部はどう評価するだろうな」とか、目が社内を向いてしまっている。会社組織だから、上司の指示に従うのは当然という側面もありますが、そこに議論がない。議論する前に、自己規制してしまっている。そういう例が実に多いのではないかと推察します。要は、新聞社やテレビ局の組織が官僚組織に似た存在になってしまったのではないか。

 自分で判断しない・できない、責任も取らない・取ろうとしない上司の顔色をうかがう、組織内の評価ばかり気にする、だから仕事は過去の例に即して進める…こうやって言葉にすると、みもフタもないですが、それが取材現場の実感ではないでしょうか。(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」野良舎)

 ジャーナリストが組織に縛られると、官僚主義になる。今まで、一生懸命叩いていた官僚が実は自分達だったとは。これでは、「日本にジャーナリズムが育たない理由」を批判できないわけである。それなら、日本にブログ・ジャーナリズムを誕生させることはできないだろうか。

ジャーナリストは足で書く?

問題になるのは、これである。普通の人間は、記者クラブで取材できないからだ。湯川鶴章氏の「ブログがジャーナリズムを変える」(NTT出版)では、
 それでも次のようなコメントが寄せられることがある。「足で情報をとってこなければジャーナリズムではない」「新聞記事を論評する程度のことはジャーナリズムではない」などといったコメントだ。別の言い方をすれば、「ジャーナリストは人のとってきた情報について、ああだこうだ言うのではなく、自分の足で人に直接会って情報をとってくるべきだ」ということになる。

 つまり、職業的にはフリーだけでなくアマチュアまで含めてもいいが、自分で取材しなければジャーナリズムではないという考え方だ。

 ただ、そう考える人は少数派で、多くの人は「プロのジャーナリストの中にもあまり取材せずに評論を活動の中心にしている人もいるので、評論だけのブログもジャーナリズムと認めてもいいのではないか」と認識している。(湯川鶴章著「ブログがジャーナリズムを変える」NTT出版)

 なお、湯川氏のブログ「ネットは新聞を殺すのか」その中で、面白かったアイデアがあった。
米国のウェブログブームの仕掛け人、デーブ・ワイナー氏を取材したことがある。そのときに将来の新聞社の形はどうなると思うのかを聞いてみた。

そのときのインタビュー記事からの抜粋

 わたしは新聞社を経営しているわけじゃないので分からないが、もしわたしが経営者なら次のようにします。まず記者全員にウェブログを開設するように命じます。それから読者にもウェブログを開設するように勧めます。エディターに記者と読者のウェブログの両方を読ませ、エディターのウェブログ上で面白いニュースへリンクを張らせるようにします。記者の情報、読者の情報は問いません。重要な方、面白い方の情報にリンクを張るわけです。読者と同じ程度の情報量や分析力さえ持たない記者のウェブログにはリンクが張られなくなる。その記者は廃業です。読者が集めてこれない情報、オリジナルな視点、解説を提供できる記者だけが生き残れるのです。これが読者を巻き込んだ新しいタイプのジャーナリズムの形です。

 エディターの役割は、図書館の司書や、タレントスカウトのようなものになるわけです。(共同ブログ騒動にみる参加型ジャーナリズムの形)

 まだまだ、ブログ・ジャーナリズムは見えてこないかもしれない。しかし、既存メディアやブログ・メディアの中で「考えない人間」は消え去り、「考える人間」のみが生き残るのではないかと思っている。


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