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素人だから言えることもある

マスコミと官僚、そして日本社会

 前項「ブログ・ジャーナリズムは誕生するか」で学んだのは、本来、官僚主義を批判するべきマスコミ自身が、政治にすりより、官僚主義化する実態だった。もともと、内向きの思考を持っている日本人が自分の地位(既得権益)を守ることに必死になり、本来のジャーナリスト精神とは相容れない姿になってしまったのだ。なぜなら、自分の身をなげうって報道するからこそ、よりすぐれた報道ができるからだ。だが、マスコミの実態は、

会社組織だから、上司の指示に従うのは当然という側面もありますが、そこに議論がない。議論する前に、自己規制してしまっている。そういう例が実に多いのではないかと推察します。要は、新聞社やテレビ局の組織が官僚組織に似た存在になってしまったのではないか。

自分で判断しない・できない、責任も取らない・取ろうとしない。上司の顔色をうかがう、組織内の評価ばかり気にする、だから仕事は過去の例に即して進める。(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」野良舎)

 この言葉は、そのままピーター・F・ドラッカーの次の言葉に直結する。
 官僚は手続きによって仕事を続けている。人の常として、何が正しいかよりも、何が自らの省庁にとって利益かを重視し、何が成果をもたらすかよりも何が行政上都合がよいかを重視する。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)(福祉国家の失敗〜40年前の「断絶の時代」を読む(3)
 ドラッカーは、官僚主義を打破するために再民間化を提案した。だが、マスコミすら官僚主義に成り下がっている。普通の会社だって、
 この生産性を上げるための企業ではなく、会社に長時間いてそれなりの収入を上げればよい会社、いわば過去の栄光にすがりつくために、ひたすら上司の顔色をうかがう会社が存続しているのは、人間の可能性を食いつぶしているに過ぎない。


 このような状態では、社員のやる気を削ぎ、無責任で考えない人間が増殖すること請け合いである。だが、おそらく、このような状態は、日本では何年も続いていたのだろう。このような企業の実態が家庭や社会から隔絶されていたために、あまり明るみに出なかったに違いない。(なぜ、考えない人間が増えてきたのか

 これはひとえに失敗を恐れるために、新たな挑戦ができなくなった社会だ。また、「iPhoneを発想できなかった日本」でも、
 例えば、タッチ・パネルについて日本のメーカーや携帯電話事業者がディスカッションすると「入力が難しいんじゃないか」「ユーザーが受け入れないんじゃないか」といった否定的なことを言う人が、もう9割9分なんですね。でも、キーボードがない方が間違いなくかっこいい。問題は、難しさにチャレンジする気になるか、難しさを理由にやめてしまうかです。日本のメーカーや携帯電話事業者の開発の過程を見ていると、結構、早いうちにあきらめてしまうことが多い。それは信念がないからだと私は思う。(日経エレクトロニクス8月11日号「トップが信念を貫かなければ,「iPhone」は作れない」夏野剛氏
 日本ではまず、周りの反対を押し切ることに大変な労力がいる。考えないで後についていくことが一番簡単なのだ。だが、金融危機で全ての企業が混乱に陥ってる現在こそ、チャレンジする時期が来ているのではないか。
 新しい文明が古い文明を侵食する時期には、二つをくらべる動きが起こるのは避けがたい。過去の文明で有利な立場にあった人や、うまく順応してきた人がノスタルジア軍団を作り、過去を賞賛するか美化し、まだ十分に理解できない将来、不完全な将来との違いをいいたてる。
 見慣れた社会の消滅で打撃を受け、変化のあまりの速さに未来の衝撃を受けて、何百万、何千万の欧米人が工業経済の名残が消えていくのを嘆いている。
 職の不安に脅え、アジアの勃興に脅えているうえ、とくに若者は映画、テレビ、ゲーム、インターネットで暗黒の未来のイメージにたえず接している。メディアが作り上げ、若者の憧れの的とされている「スター」は、街角のチンピラや傍若無人な歌手、禁止薬物を使うスポーツ選手などだ。宗教家からはこの世の終わりが近いと聞かされている。そしてかつては進歩的だった環境運動がいまでは大勢力になり、破局の予言をふりまいて、「ノーといおう」と繰り返し呼びかけている。アルビン・トフラー「富の未来」講談社)(2007年とは何だったか。そして2008年はどこへ向かうのか。

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