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素人だから言えることもある

テロリズムと神、幕僚長の奇妙な思想

 ドラマ「ブラッディ・マンディ」を見ていると、テロリスト集団が神の名を名乗っていることに気づいた。人間を裁くには、神の力が必要と考えているのだろう。オウム真理教でも、ポアという名で人の生死を裁いていることを思い出す。イスラム教にしてもキリスト教にしても、戦争をするには神の名が必要なのはなぜか。

復讐するは我にあり

 たとえば、「復讐するは我にあり」という言葉がある。これは、「黒手塚ワールド「MW」」で触れたが、もともと新約聖書のローマ書の言葉である。
愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」ローマ書12・19(佐木隆三著「復讐するは我にあり」講談社文庫)
この『我』というのは、神のことである。復讐することは神の専権事項であり、人間が携わってはいけないと言う。聖書名言辞典(荒井献・池田裕一編著)に同じ箇所を口語体で示してみる。
愛する者たちよ、あなたがたは自分自身で報復せず、むしろ(神の)怒りに場所を譲りなさい。(次のように)書かれているからである。復讐は私に属すること、私こそ報復する、と主が言われる。(ローマ書12-14〜21)(荒井献・池田裕一編著「聖書名言辞典」講談社)
このように聖書に書かれているのにアメリカはどうしてイラクに対して、復讐を続けるのか。その答えは2003年5月3日の朝日新聞be「ことばの旅人」にこう書かれている。
オルソン氏がミシガン・ミリシア(民兵組織)を創設したのは94年。当時29人しかいなかった会員は、現在1万人いる。週末に森の中で行軍や射撃、露営の訓練をする。同様の組織は全米各地に増えているという。

彼にはもう一つ肩書がある。町にあるプロテスタントのバプテスト教会。その牧師なのだ。

復讐(ふくしゅう)するのは神であって、人がやってはいけないと、聖書には書いてありますね」。そう尋ねてみた。

聖書は『目には目を』とも言っているだろう」と首を振った後、オルソン氏の口調は熱を帯びた。「すべての人と平和に暮らすことができれば幸せだ。だが現実には、神から授かった子どもたちが傷つけられている。何もしなくていいのか。それは、復讐ではなく正義なのだ」(2003年5月3日朝日新聞be「ことばの旅人」社会部・森北喜久馬)

旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」

 「目には目を」の言葉は「レビ記」に書かれている。同じく「聖書名言辞典(荒井献・池田裕一編著)」から
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。彼が他人に負わせた傷と同じことが彼にも負わされなければならない。(レビ記24-20) (荒井献・池田裕一編著「聖書名言辞典」講談社)
なにやら聖書をできるだけ現実に近づけようと都合よく解釈しているように見えるのだが。さて、イラク戦争の大義を求めるために宗教学者は活躍する。朝日新聞be「ことばの旅人」から続ける。
「神の意思」をイラク戦争に結びつける試みは研究者の間でも盛んだ。保守系シンクタンク・ヘリテッジ財団で宗教を担当するジョセフ・ロコンテ研究員(41)は1月末、「神は戦闘者でもあった」というコラムをホームページに載せた。「私が地上に平和をもたらすために来たと思ってはならない。私は剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ」。聖書のキリストの言葉を引用し、政府の対イラク強硬路線を支持した。

「大義なき戦争を起こしてきたのはイラクの方だ。宗教者は、悪の問題をあまりに考えなさすぎる」と主張する。

宗教社会学の権威、カリフォルニア州立大バークレー校のロバート・ベラ名誉教授(76)は、毎朝、説教集をひもとくというブッシュ大統領に手厳しい。「何かと神を引き合いに出す割に分かっていない」

「復讐(ふくしゅう)するは我にあり」を順守すれば、防衛戦争もできない。そこで、キリスト教がローマ帝国の国教となった4世紀以降、徐々に整えられたのが「正戦」(Just war)の理論だ。(1)不当に攻撃を受けた(2)反撃は度を超さない(3)関係ない者を傷つけない、として戦争は正当化されてきた

「アフガンはともかく、今回のイラク戦争がこれにあたるのか」と教授は言う。(2003年5月3日朝日新聞be「ことばの旅人」社会部・森北喜久馬)

「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

 ところで、「目には目を」の言葉だが、キリスト自身は批判的である。
あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」38-39節 (新約聖書[布忠.COM])
この「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」に一つの考察がある。
 最近、私が見たそんな「謎」は「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい "But whoever strikes you on your right cheek, turn to him the other also."」という言葉です。新約聖書マタイ伝の中に書かれているイエス・キリストの言葉です。この言葉を聞いた人が書いた、「あれ?ふつう右利きの人がほとんどですよね?だとしたら、右の手で相手をぶつんだから、(頬をぶたれる側の人からすれば)左の頬を打たれることになるんじゃないですか?最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問を眺めたのです。…確かに、不思議です。世の中の90%くらいの人が右利きだということを考えると、ぶたれる頬は「左頬」が自然です。相手から「右頬」を打たれる、というのは何だか不自然です…?

 そこで、Wikipedia の"Turn the other cheek"の項や、「右頬を…」という言葉を解説した文章を読んでみると、とても興味深い(もっとも支持されている)説を知りました。それは、この言葉で勝たれているのが、「右手の甲で相手の右頬を打つ」という状況だった、ということです。確かに、右手の甲で相手の顔を払うように打つのであれば、(頬をぶたれる側からすれば)右頬が打たれることになります。そして、古代のユダヤ世界では、「手の甲で相手の頬をたたく」ということは、非常に相手を侮辱する行為で、自分より「階級・地位」が下である者に対してのみ行うことが許されていた、というのです。また、当時は左手は「悪い」側の手とみなされていて、自分の主張などを行う際には使うことができませんでした。だから、「右手の甲で相手の頬を打つ」というのは、「自分より地位が下のものを、侮辱しつつ叱責する」という目的で「ごく自然に行われていた」行為であった、というわけです。なるほど、だとすると、「最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問は氷解します。…だとすると、今度は次の疑問が湧いてきます。「さらに奥にある疑問」が浮かんでくるはずです。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」という言葉は、一体どんなことを言おうとしてるのでしょうか?

 「左の頬を向けられ」たら、(右頬を打った)相手はどうするでしょう?左手は使えませんから、左の手の甲で「左頬」を打つことはできません。だとすると、右手の掌で相手の左頬を打つことになります。…しかし、(自分より相手の地位が下だとみなす行為である)手の甲で相手を打つのではなく、「掌で相手を打つ」ということは、相手を自分と対等だとみなすことです。つまり、「自分より身分が下」だと蔑んでいる相手を、「自分と同等の人間である」と認める行為になってしまうわけです。(頬を打った側の人は)大きなジレンマを抱えてしまうことになるのです。

 つまり、この言葉は、単なる「相手の暴力・差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味ではなく、「暴力は使わず、根本の意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉であった、というわけです。旧約聖書の「目には目を」という「報復行為」と対比されることが多いために、私はこれまで単なる「無抵抗主義を示す言葉」だと思っていたわけです。しかし、実はそうではなかった…ということがとても面白く、興味深く感じたのです。(平林純@「hirax.Net」の科学と技術と男と女)

コーランの「目には目を」

 それならコーランの「目には目を」ではどうなっているだろうか。
 今回、この文を書くにあたって、イスラム関係の本やコーランの翻訳本、コーランの解説書などを購入し、いろいろ読んでみました。確かに、コーランには、過激な表現がいろいろと出てきます。例えば、「殺人の場合には、目には目を歯には歯を、が規定である。」という有名な文章。しかしこれも、続く言葉をそのまま読めば、「つまり、自由人には自由人、奴隷には奴隷、女には女。しかも、当事者が許す、と言った場合には、正々堂々と事を運ばなければならないし、また(殺した)当人も立派な態度で償いの義務を果たさなければならない。」とあり、一人殺されたならば、同格のもの一人の命、と言うことであり、いたずらに命を奪ってはならない、と読むことが出来ます。また、命に値するだけの償いで納得する場合には、復讐心を持ってはならないとも言っています。これは、報復に継ぐ報復によっていたずらに多くの命を失うことを避ける為の規定と取れ、この部分だけを見ても、今「イスラム過激派」と呼ばれる人たちがしている「テロ・無差別テロ」がコーランから外れており、多くのイスラム教徒の信仰とは、異質なものであるといえます。(中東問題私的考察)
「イランという国で」というブログでは
まず、非ムスリム世界を相手にするテロリストたちが必ず引用するコーランの一節、「騒擾がすっかりなくなる時まで、宗教が全くアッラーの宗教ただ一筋になるまで、彼らを相手に戦い抜け」(コーラン牝牛章第193節)ですが、この節には続きがあり、彼らはそれを無視します。

しかしもし向こうが止めたなら、汝らも害意を捨てねばならぬぞ。悪心抜き難き者どもだけは別として

(中略)

復讐はムスリムに保障された権利ですが、絶対に行使しなければならない義務であるなどとは言われていません。

 コーランの次にムスリムの行動規範となっているハディース(預言者の言行録)にはこう書かれています。

 神の使徒が「加害者であれ、被害者であれ、汝の兄弟を助けよ」と命じた時、或る男が「害を受けている人を私は助けますが、害を加える者をどうして助けることができるでしょうか」と言うと、彼は「害をさせないようにすること、それが助けることなのだ」と応えた。(イランという国で:思い出してほしいこと)

 このことから浮かび上がるのは、「聖書」や「コーラン」の自分たちの都合のよい部分をとりあげ、宗教がこう言ってるからと言い訳をしている人間の姿である。

正戦の論理の破綻

人を殺すのは人であって銃ではない」(全米ライフル協会スローガン)
 アメリカでは銃を登録して所持している者だけでも8000万人を超えているという。このスローガンは、銃を包丁や車と同列にとらえている。包丁や車は使う人間によっては便利な道具となったり、凶器となる。銃もまたそのように考えろとでもいっているようだ。しかし、銃で料理を作ることもできなければ、人を乗せてドライブすることもできない。銃は、人間を殺傷するためだけに作られたものである。このスローガンを拡大解釈してみるには、「銃」を武器や(核)兵器に変えてみればよい。武器それ自身が戦争を起こすのではない。武器を持った人間が戦争を起こすのだ。したがって、その武器を持った人間が悪人であれば、同じ武器を使って悪人を殺してもよい。もし、武器を持つこと自体が違法であれば、武器を使って悪人を処分できないではないか。

 こちら側だけが正しいという論理は既に破綻している。それでも戦争は起こり、テロリズムは続く。だが、冒頭に書いたように、戦争を引き起こしているのは、宗教でなくそれを悪用している人間なのだ。

亡国を守る航空幕僚長の思想

 宗教が過去のものとなった国では、わざわざ自分に都合のよい理論を吹き込むことで過去の亡霊を蘇らせる。今回の、田母神俊雄(防衛省航空幕僚長空将)の「日本は侵略国家であったのか」の論文もまた、自分に都合のよい文章の羅列に過ぎない。僕は、「イージス艦の衝突事故・日本人の敵は日本人」で引用した
ギリシャ神話に登場する、どんな攻撃もはね返す楯。それがイージスの語源だ。しかし現状では、イージス艦を始めとする自衛隊装備は防御する国家を失ってしまっている。亡国の楯だ。それは国民も、我々自身も望むものではない。必要なのは国防の楯であり、守るべき国の形そのものであるはずだ。(「亡国のイージス」福井晴敏著・講談社文庫)
の言葉をささげたい。田母神航空幕僚長の言う文章によれば、守るべきなのは、現代の日本国民ではなく、侵略国家といういわれなき濡れ衣を着せられたかつての大日本帝国という亡霊であったことだ。そして、その思想の根本には、テロリズムの発想と共通する根源が見え隠れしている。それは、同じく「イージス艦の衝突事故・日本人の敵は日本人」で引用した、樋口真嗣監督の
現在の日本を裁こうとする人間と、それを守ろうとする人間の話に。今の日本を見ていると、自分にも二つの気持ちがあるんです。「何でこんなになっちゃった」という思いと、「それでも生きていかなければ」という思い。その両方の戦いにしたかった。福井さんの小説は、実は全部そうだと思うんです。(「ダ・ヴィンチ」2005/6月号)
 人を裁くために、宗教や過去の都合のよい事実を並べ立て、一気に殲滅してしまおうとする「何でこんなになっちゃった」=現代社会はもうだめだから破壊して、新しい自分に都合よい社会を作ろうというテロリズムの論理と、「それでも生きていかなければ」=確かに世の中には悪いことが一杯あるけど、少しずつでもよくしていこうという守る側の論理がある。田母神航空幕僚長は、どう見ても前者の発想から抜けられないのではないか、と思う理由はそこにある。
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