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素人だから言えることもある

正義を振りかざすもの

 映画「誰も守ってくれない」を見てきた。監督は、「踊る大捜査線」の君塚良一監督。プログラムの冒頭に、監督のメッセージがあった。

いつから人間は、他者の痛みを感じないようになってしまったのでしょう。人の痛みを自分のことのように感じられなくて、人が人を信じたり、愛したり、守ることができるのでしょうか。

この映画は殺人犯の妹を守る刑事の話です。物語の中では今現在、この社会の抱えている矛盾がいくつか描かれます。未成年が犯す犯罪、家族という絆の崩壊。個を切り捨てる組織、誰彼なく糾弾するマスコミ。暴走を始めたネット。匿名性の恐ろしさ。社会に晒される個人。それは現代の悪意とも呼べるものです。

この映画は、その現実をドキュメンタリータッチで、リアルにありのままに描いていきます。しかし、誰が悪い、何がいけないとは決して主張しません。カメラはただ現実を見つめ記録します。

主人公は傷ついた少女を守ります。守るということは、その痛みを感じることです。それはとても辛いことで、主人公は必死にもがきます。彼の心の旅がテーマといえるでしょう。この物語は人が人を守る大切さを描きます。(「誰も守ってくれない」プログラムより)

 映画の始めのほうで、容疑者の家族を保護するために、離婚手続きをして、母親の姓にもどし、父親は、母の婿養子になる手続きがされることには驚いた。容疑者は未成年であるが、苗字から家族の居場所が知られることを恐れたからだ。だが、マスコミは執拗に追いかける。新聞記者が「被害者は容疑者の家族にも死んでお詫びをしてもらいたいと思っている」マスコミ特有の、自分の立場を被害者に成り代わり、自分こそ正義であると思い込んでいる。

 ネットはもっと過激である。容疑者が未成年であろうとなかろうと、クラスメイトであれば、たちまちアルバムから写真が提供される。住所を特定し、彼女の親友が乗り込んで、実況中継さえ始める。刑事は言う、「一番近いものこそカリスマだ」。その人しか知らない情報を持っているということ、つまり情報源なのである。プログラムに「タブー」というキーワードがあった。

<タブー>

オウムで、何かが「タブー」を超えてしまった。戦争でも使わなかったサリンが使われた。「タブー」とは、やってはいけないこと。それはたぶんに感覚的なものだ。犯罪とは別に僕らがやってはいけないこと。それを軽々超えてしまった。

ネットもそうだ。「タブー」を超えている。いま、ネットでは「正義」という名の下に「タブー」が超えられているような気がする。人それぞれの中に感覚的にあった「タブー」が、いま崩壊しかけているような気がする。おそらくネットは「タブー」を破りやすい媒体だったのだ。(「誰も守ってくれない」プログラムより)

 親友だからこそ、家族だからこそ、守るべきことが「正義」の名のもとに踏みにじられる。そして、裏切られた彼らは誰も信じられなくなる。かつての「オウム信者」がどこにも受け入れられず、結局元へ戻ったように。

 なぜ、ネットが「タブー」を破りやすい媒体なのか。それはモラルなき個人の集まりだからと白井プロデューサーは言う。

メディアが人を動かし、ネットを動かし、そのネットによってまたメディアが動いていく。マスコミですらもはやネットの持っている匿名性、個人攻撃性には辟易するというと変だけど、もうどうにもならないところに行き着いているといった今の現状を。マスコミは、あるモラルを持って情報を扱おうとしているから、そのモラルを間違った方向で使うと情報操作だと言われ、ある企業や政治家をかばったと叩かれたりもする。でも殺人現場の生の映像を発表などしないし、未成年の名前を発表する際には事件性や少年法に照らし合わせた上でモラルを持って行う。それに比べ、ネットは個人で繋がるから、個人が高い道徳性を持っていないと情報のタレ流しになってしまう。(「誰も守ってくれない」プログラムより)
 さらに、君塚監督は、「正義」でネットが繋がるのは自分たちの孤立をうめるためだという。
正義って胸に秘めておくものだったんですね。いまはみんなそれぞれが孤立してしまって、孤立をうめる方法もなくて、誰を攻撃していいか、信じていいかわからないときに、おそらく別のアイコンとして正義という言葉が出てきたと思う。かつての“正義の名の下に”という言葉の“正義”じゃない。正義という言葉を使って攻撃することで一体感を得たり、自分が生きている証を作ろうとしている。孤立を解消するための言葉にすぎないし、ねじれているし、間違っていると思う。それは正義じゃないよ………。正義はそれぞれが胸に秘めておくべきものだと、僕は今でも信じています。(「誰も守ってくれない」プログラムより)
 人間は誰かと繋がらなければ生きていけない。しかし、「祭り」のように自分勝手な「正義」で個人攻撃をしたところで、それは繋がったことにはならない。むしろ、相手の痛みを受け入れて始めて繋がるのである。主役の佐藤浩市はこの「誰も守ってくれない」というタイトルについてこう答えている。
一見、ネガティヴにも聞こえるけど、現実的には人と人とのつながり方を自分が認識しているからこそ“誰も守ってくれない”んだと。自分でやらなきゃいけない。自分で守らなきゃいけない。そう言える意味合いもこのタイトルには含まれてると思います。

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