夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

コンテナー(入れ物)大国からコンテンツ(中身)大国へ変換するとき

インターネットは、コンテンツをコンテナーから引き離す

 日本はコンテナー大国である。自動車は、人間を運ぶ入れ物であるし、テレビは、番組というコンテンツを見せる入れ物である。また、CD、DVD、ブルーレイディスクなどのメディアもまた、音楽や映画などのコンテンツを入れる入れ物であった。新聞にしてもそうだ。印刷機や紙媒体などインフラも、記事というコンテンツを入れる入れ物だ。私たちは、このインフラやメディアを含めてこれらのコンテナーに料金を払ってきたのである。そして、インターネットが私たちの前に登場すると、「別にコンテナーに金を払う必要ないじゃん」ということがわかってきた。
 このコンテナーとコンテンツについて、「コンテナーからコンテンツを取り戻せ」で、アメリカのAP通信社のトム・カーリー社長の言葉を「サイバージャーナリズム論」(歌川令三、湯川鶴章佐々木俊尚、森健、スポンタ中村著/ソフトバンク新書)から引用した。
 そこで、米国の新聞経営者は「紙」へのこだわりをかなぐり捨てて、新たな“敵”と対決すべく「電子部門を強化せよ」の戦略に転換したのだ。彼らの合言葉は「コンテナーではなく、コンテンツに注目せよ」だ。このセリフを流行らせたのがAP通信社のトム・カーリー社長で、メディア研究シンポジウムの席上、「問題はコンテナー(container)にあるのでなく、コンテンツ(contents)をいかに活用するかだ」と述べた。

 コンテンツとは情報の中身、コンテナーとは情報の容れ物のことだ。新聞社は長年にわたり、マスコミ界で情報のコンテンツ作りの王者だった。それを新聞という紙製のコンテナーに詰め込んで、読者に運んでいた。ところが、電子メディアの出現で、コンテナーの鍵をこじ開けられてしまった。(歌川令三、湯川鶴章、佐々木俊尚、森健、スポンタ中村著「サイバージャーナリズム論ソフトバンク新書

また、同じ本で、アルファブロガー佐々木俊尚氏は、
メディアを考えるときに、コンテンツとコンテナーという分け方がある。番組や記事がコンテンツであり、それを人々に伝える電波や印刷物、ウェブサイト、メールなどがコンテナーだ

 本当の通信と放送の融合というのは、メディアを「コンテナー本位制」から「コンテンツ本位制」へと移行させることである。

 これまでのテレビ局は電波免許というコンテナーにしがみつき、コンテンツ制作者である番組制作会社を下請けとしていじめ抜いてきた。だが今後、ブロードバンドの普及などでテレビが多チャンネル化していけば、秀逸なコンテンツを作るクリエーターこそが重要なのであり、どのチャンネル(コンテナー)で番組を送り出すかは重要でなくなる。(「サイバージャーナリズム論」第三章 テレビ局をめぐる大いなる幻想/佐々木俊尚著)

と説いている。インターネットの普及は、このコンテナーからコンテンツを引き離す力を加速する。

日本はイノベーションのジレンマ

 しかも、コンテナー産業である家電産業が凋落したのは、新興国からより低価格の家電が登場したためであるのは、「地デジ完全移行一年前倒しで得するのは誰?」で、
パイオニアがテレビ部門から撤退したのも、激しい価格競争に持たなくなっているからだ。たとえば、イオンが32インチ液晶テレビDVDプレーヤー付を発売する。価格が4万円台だという。その記事の最後にこんなコメントがある。

調査会社のBCNによると、景気悪化の影響で液晶テレビの価格は昨年12月から急速に下落。現在、32型の最安値は6万円程度だが、4万円台でDVDプレーヤーも付いた機種は「これまで見たことがない」(BCN)ことから、価格低下にも拍車が掛かりそうだ。(イオン、格安家電を販売  32型液晶テレビが4万円台)

 つまり、今まで主流になっていた高級品は売れないのである。作れば作るほど赤字になるのなら、作らないほうがいい。

と書いたとおりである。もちろん景気悪化で高価格品のものが売れなくなったという意味もある。それよりも、低コストの海外ブランドが成長著しく、消費者側も別に最低限の機能でもいいと今までの趣味志向が変化したのである。そのため、パソコン業界でも、ネットブックのようなメールとインターネットがあればいいという機能特化した製品が主流になりつつある。テレビもまた同様である。イオンの49800円の製品も韓国のサムスン製のパネルを使用し、低価格化を実現した。
それは何を意味するか。よほどの高級品志向の消費者でない限り、海外はもとより、日本国内生産の家電製品はこれからも売れないということだ。それほど人件コストが日本では高止まりしているのだ。僕は、「イノベーションのジレンマ」とソニーで、ソニーの例を引いてこう書いた。
1.企業は顧客と投資家に資源を依存している

 顧客と投資家を満足させる投資パターンを持たない企業は生き残れないため、実質的に資金の配分を決めるのは顧客と投資家である。業績のすぐれた企業ほどこの傾向派が強く、すなわち、顧客が望まないアイデアを排除するシステムが整っている。その結果、このような企業にとって、顧客がその技術を求めるようになる前に、顧客が望まず利益率の低い破壊的技術に十分な投資をすることはきわめて難しい。そして、顧客が求めてからでは遅すぎる。(「イノベーションのジレンマ」)

ソニーの例1

 草創期のソニーは、経営者のアイデアや直感で次の製品が決定されていたトランジスター技術に着目した盛田氏は、その権利を持っていたアメリカのAT&Tに「トランジスターは補聴器ぐらいしか使えない」とか「そんな小さなラジオが売れるわけがない」とは言われたが、結局トランジスターラジオで「ソニー」の名前を世界にとどろかせた。

 ところが、企業が巨大化すると、1経営者や1社員のアイデアに資金を投入することが難しくなる

 たとえば、平面ブラウン管ベガの成功で酔ってしまったソニーは、プラズマや液晶技術開発に遅れてしまった。またブラウン管の次は有機ELであると見ていたが、初期の計画より時間がかかってしまった。

 ソニーが大企業になってしまうと、どうしても投資家や顧客を安心させるために、冒険することが難しくなる。新興国のテレビに対抗するためには、より小さな会社が必要なのであるが、日本は高コスト社会になっているため、国内では製造することすら、不可能になる。

 また、同じようなイノベーションのジレンマは日本中の企業が抱えている。「iPhoneを発想できなかった日本」でも、ドコモの夏野剛氏の言葉を引用している。

 例えば、タッチ・パネルについて日本のメーカーや携帯電話事業者がディスカッションすると「入力が難しいんじゃないか」「ユーザーが受け入れないんじゃないか」といった否定的なことを言う人が、もう9割9分なんですね。でも、キーボードがない方が間違いなくかっこいい。問題は、難しさにチャレンジする気になるか、難しさを理由にやめてしまうかです。日本のメーカーや携帯電話事業者の開発の過程を見ていると、結構、早いうちにあきらめてしまうことが多い。それは信念がないからだと私は思う。結局、従来の延長戦上 で開発を進めることが多くなります。みんなで議論しないと前に進まないので、とんがった部分がなくなってしまう。(日経エレクトロニクス8月11日号「トップが信念を貫かなければ,「iPhone」は作れない」
 新興国が低予算ながら、自由な発想でものづくりをしているのに対し、日本全体が自らの責任をかぶること恐れ、誰も新しい発想ができない

コンテンツは最後の砦

 しかも、現在コンテナ産業はレッド・オーシャンに見舞われている。僕は「ものづくりは人づくり」で
 『ブルー・オーシャン戦略』(ランダムハウス講談社)という経営書が静かなブームになっている。米国でベストセラーになり,各国語に翻訳され,世界100カ国以上で刊行されているという。

 この本では,競合他社と価格や機能で血みどろの戦いを繰り広げなければならない既存市場を「レッド・オーシャン(赤い海)」,競争自体がない未開拓の市場を「ブルー・オーシャン(青い海)」と呼んでいる。「コスト削減」や「差異化」などを勧めるこれまでの経営書は,どれもレッド・オーシャンで勝つための方法を説いているとし,それとは違うブルー・オーシャンを創造することを提唱。そのための具体的な方法を解説している。(「他社とは違う土俵で勝つ」ためのブルー・オーシャン戦略

 レッド・オーシャンになると、機能よりも低価格を競うことになる。そうなると、人件費が安い低価格製品には勝てない。勝つためには、まったく違った未開拓の分野、つまりブルー・オーシャンを目指さなければならない。アメリカは、家電産業は手放したが、映画やテレビのコンテンツ産業はまだ健在だ。日本も今回の「おくりびと」「つみきのいえ」などのアカデミー賞受賞や、ノーベル賞の受賞など、個人個人のコンテンツは健在である。コンテンツの世界は、コンテナー産業のように大量生産はできないが、一人ひとり違ったブルー・オーシャンの世界である。そのクリエイターしかできない世界を大事に守っていくことで、たとえば東京に行けばかつてのルネッサンス時代のパリに世界中の画家が集まったように、世界中のクリエイターが集まる都市にできれば素晴らしいことではないだろうか。現在、日本ではものづくりが効率のみを求められ、ものは作るが人は作ってこなかった。しかし、コンテンツ=クリエイターの世界になれば、ものづくり=人づくりになる。そしてそのことが大切なのである。
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