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素人だから言えることもある

ブログは現在でしかないのか

ジャーナリストのリアリティとは何か

 佐々木氏の「週刊誌記者の取材に心が汚れた」で、テレビの草創期の「テレビ——お前はただの現在にすぎない」という言葉を取り上げ、テレビや雑誌の記者たちがどんどんリアリティをなくし、予定調和の世界に埋没していくことを示した。

 確かに、リアリティのある報道を心がけるジャーナリストにとって、予定調和の世界はあまりにも魅力がなく、現実は、もっと新鮮で驚きに満ちている世界だ、そして真実をありのままに報道すべきだと佐々木氏は思っているのだと思う。でも、リアリティって何だろう。たとえば、佐々木氏の言う「心が汚れた記者」にとっては、佐々木氏のジャーナリスト精神よりも、明日の飯の種になる記事のほうが、よっぽどリアルだと思っているかもしれない。たとえば、僕は、「ブログ・ジャーナリズムは誕生するか」でこんな例を見た。

 そして、これが一番重要なのですが、何をどう報道するかという肝心な問題を突き詰める前に、「デスクは許してくれないだろうな」とか、「会社の編集部はどう評価するだろうな」とか、目が社内を向いてしまっている。会社組織だから、上司の指示に従うのは当然という側面もありますが、そこに議論がない。議論する前に、自己規制してしまっている。そういう例が実に多いのではないかと推察します。要は、新聞社やテレビ局の組織が官僚組織に似た存在になってしまったのではないか


 自分で判断しない・できない、責任も取らない・取ろうとしない。上司の顔色をうかがう、組織内の評価ばかり気にする、だから仕事は過去の例に即して進める…こうやって言葉にすると、みもフタもないですが、それが取材現場の実感ではないでしょうか。(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」野良舎)

 真実を追究することよりも、このニュースを書けば自分の地位はどうなるかを考えてしまう。だから、叩けるものは嘘でも何でも書く。政治家や権力に対しては、自分の立場が悪くなるので決して書かない。そのように自分の回りしか見ていないので、どんどんリアリティがなくなる。つまり、ジャーナリストが本来、持っていなければならない追求心がないので、一番リアリティのある世界は、自分の周りの世界だけになる。

インターネットは現在だけなのか

 さて、佐々木氏は旧メディアに失望し、インターネットというまだ始まったばかりの世界に希望を見出そうとする。
 ウェブは権力でもなければ、清い空間でもない。バカや暇人や悪人やいろんな人間がそこに生息し、毒づいたり感動したり笑ったり誹謗中傷したり、いろんなことをしている。つまりはそれこそがリアリティと言うことだ。

 テレビや新聞がリアリティをなくしていったあとに、本当のリアルを体現するネットがやってきた。この荒々しい場所はひどい場所だけれども、しかし権力化してステレオタイプな予定調和にまみれてしまったテレビや新聞にはもう期待できないリアルに溢れている。(週刊誌記者の取材に心が汚れた

 佐々木氏は、ジャーナリストなので、ひたすら現在のリアリティにこだわるが、僕は、グーグルが今やっている、図書館の本のスキャンなどを見ると、「グーグルは過去が欲しい」のだと思う。もちろん、検索情報が多ければ多いほど、常にトップに立っていられる。僕は「グーグルと神」のエントリーで佐々木氏の本の感想としてこんなことを書いている。
 CNET Japanのブロガー佐々木俊尚氏の著書「Google 既存のビジネスを破壊する」(文春新書)を読んでみると、最終的にGoogleは神になるという言葉に集約されます。ユビキタスとは「いつでも、どこでも、だれでも」使える技術ということですが、別名「神の遍在」と言われます。つまり、本当に手の届くところに欲しいものが存在するためには、その人が何を欲しがっているかを知らなければなりません。それぞれの個人情報を集めれば、究極の監視システムになります。そしてそれは神のみが許された行為なのです。したがって、人々が何を欲しがっているかを知っている神の存在を目指しているということになります。でも、そこまで許してしまえば、人間は退化するだけですが。
 もちろん、グーグルは神になりたいとは思っていないのかもしれない。だが、アップルやマイクロソフトに比べてまだ若い企業である。メディア産業で権威を持つには、ある程度の歴史が必要だ。そこで、過去の知識を集めてる?というのは冗談だが、ともかくジャーナリストが報道をするためには、徹底的な調査が必要である。現在だけを見ていては、事実の流れを見ているだけで右往左往してしまう。佐々木氏にしても、毎日新聞時代に報道記者として徹底的に訓練されたのではないだろうか。つまり、現在を見るには、その対象の過去を知ることが重要なのだ。ただの傍観者では報道できないのである。テレビは、一見すると現在だけを追っているように見える。だが、50年たって、それなりの過去の知識=番組というコンテンツができている。ライブドアにしても楽天にしても、IT企業がテレビ局を狙っているのはこのコンテンツがあるからだ。既存のIT企業よりも、より安く便利な企業、たとえばグーグルのような企業が現れれば、たちまち追い落とされてしまうだろう。そこでこのコンテンツを流す側になれば、当分安泰だというわけだ。

そしてブログは現在だけなのか

 CNET Japanが3周年を迎えたという。僕はまだ2年半の新参者だが。僕は、当初から過去のエントリーの文章を引用したり、新たに資料を読み重ね、その資料を引用したりしている。それはなぜか。そのことは、コメントにこう書いた。
当然、CNET Japanからのデータなので、結構増減があり、信頼できかねる部分もあるのですが、ともかく、過去のエントリーをどのように見られているかを目的にして毎月、ランキングをしています。このようなブログだと、現在のみで読まれなければそのまま消え去ってしまうと、過去のエントリーは検索するしか方法はありません。タイトルを知らなくては、検索できないので、100本ごとに五十音索引を作っています。ともかく、使い捨てのエントリーではなくて、自分自身のためのデータベース作りを狙っています。(2009年5月アクセス増加ランキング・コメント)
 そして、過去のエントリーを読み返すことで、今の現在の考え方を作るためである。世の中には、毎週のように様々な事件やニュースが起きる。そのたびに感想だけを書いても、誰も読んではくれない。少なくとも、他人とは違った視点が必要だからだ。ゲームであれば、レベル上げをすることでより高い視点に立つことができる。今まで、壁だと思っていたところも、一望すれば抜け穴を探すことも可能だ。僕は、資料になるエントリーを踏み台にして独自な視点を探そうとしているのだ。しかし、多くのブログは過去の自分のエントリーを見向きもせず、ひたすら現在の事件や現象に対して、感想を述べ合っているのに過ぎない。それとも、あえて過去を無視したいという気持ちでもあるのだろうか。
 表面上、現在を問題にしているようだが、実は過去のエントリーの繰り返しであるというのは誰にでもあることだろう。僕は、積極的にそれをしている。そうやって、過去の土台を積み上げ、新たな考え方を再発見するためである。「未来は過去でできている」で、ヴァイツゼッカーの言葉を引用した。
罪の有無、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばならない。全員が過去からの帰結に関わりあっており、過去に対する責任を負わされているのである。
過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる
。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険にも陥りやすいのだ。
 若い人たちにかつて起こったことの責任はないが、その後の歴史の中でそうした出来事から生じてきたことに対しては責任がある。若い人たちにお願いしたい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないように。敵対するのではなく、たがいに手を取り合って生きていくことを学んでほしい。(永井清彦訳)」(ヴァイツゼッカー演説)(岩波ブックレット「荒れ野の40年 — ヴァイツゼッカー大統領演説全文 — 」)
 そしてそのエントリーは、こう締めくくった。

不祥事が後を絶たないのは、誰も過去を学ばないからである。そのとき、そのときの話題を追いかけるだけで、何も身につかない。過去を発掘し、現代につなげることで、未来を展望する。過去に学ばないものは、現在を見失い、未来に失望する。この大きな違いが、その人の人生を作るのである。
 もし、ブログが正統なジャーナリズムとして評価される時が来るとすれば、それは過去をきちんと学び、人々に未来への希望の可能性を語ったときであろう不安だけを言い募るのであれば、何も学ぶ必要はないからである
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