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素人だから言えることもある

ニュースの価値を誰が判断するか

欧米の新聞は死んだ?

日経ビジネスオンラインでこんな記事があった
欧米の新聞は、既に死んでいる−元新聞記者が愛惜を込めて直視した業界の終焉−

 世界第2位の富豪で米国人投資家であるウォーレン・バフェット氏は今春、新聞業界への投資を断念すると発言した。「いかなる価値であっても、ほとんどの新聞社は投資に値しない」と年次株主総会で彼は語った。「新聞各社は今後も損失を出し続ける可能性がある」とも言っている。

 ビジネスでも新聞業界にかかわり、業界への思い入れの強いバフェット氏だけに、この発言は非常に大きな意味を持つ。子供の頃、彼が最初に携わった仕事は新聞配達だった。そして、長い間「ワシントン・ポスト」紙や「バッファロー・ ニュース」紙の株主でもあった。「問題は、読者にとっても広告主にとっても、もはや新聞は必要不可欠なものではなくなっていることだ」と彼は言う。ニュースは今やインターネット上など至る所で、いくらでも手に入れることができる。要するに「新聞」というビジネスモデルは既に崩壊してしまったということだ。(欧米の新聞は、既に死んでいる

 確かに、新聞はインターネット時代になり、収益を上げる方法が難しくなりつつあるのは、「皆、気がついてしまった。インターネットでは、ニュースは誰も儲からないことを。」などで、考えたことである。だが、そのニュースの元になる記事を誰が書くのか。そして、その記事の重要性を誰が判断するのか
 新聞擁護者は、「新聞がなければ、民主主義が廃れる」と言う。そんな時彼らが引用したがるのが、米国の政治家、トマス・ジェファソンが1787年に言ったこの言葉だ。

 「我々政府は人々の意見に立脚しているのだから、政府の第一の目的はそれを正しく維持することである。新聞のない政府か、または政府のない新聞かのどちらかを選ばなければならないとしたら、私は躊躇することなく後者を選択する


 しかし、ジェファソンは紙に印刷された情報の必要性について語っているわけではない。彼がここで言っているのは、政治経済や戦争に関する複雑な情報は、人々に分かりやすく伝える必要があるということだ。

 通信技術が発達し、情報共有が進むにつれ、ジェファソンの言ったことはもはや問題ではなくなった。我々は以前よりもずっと世界中の出来事について情報を得ている。情報を得る方法が数多くあればあるほど、それを規制する力は弱くなる。(欧米の新聞は、既に死んでいる

 民主主義の権利は、一部のジャーナリスの元にあるわけではない。もし、限られた記者や編集者にあるとしたら、結局は、かつての大政翼賛会と変わらないではないか。

日本のメディアの問題点

 それなら日本のメディアはどうか。
 海外で生じているこういった問題を聞いても、日本では対岸の火事と思われるだけかもしれない。日本の新聞はまだまだ元気で、世界でも最高の購読数を誇り、高齢化してはいるけれども、安定した読者を抱えている。過去10年間、米国での新聞購読数が15%も落ちているのに対し、日本での下落率は3.2%にとどまっている。(欧米の新聞は、既に死んでいる
 しかし、表面的な数字がそうであっても、日本のメディアには大きな問題がある。「日本にジャーナリズムが育たない理由」で取り上げた、(1) 独立行政委員会の不存在(2) 系列化(3) 広告一業種一社制の不採用のいずれもが、結局は、お互いに競争して民主主義を追及するという理念とは程遠い、官僚組織そのものであったことだ

(1) 独立行政委員会の不存在

そもそも、放送に使用できる電波に限りがあるため、放送局は電波を利用するための免許を受けて放送事業をしている。先進諸国では、放送の影響力の大きさから、放送事業は政府から独立した独立行政委員会が司っている。しかし、日本では、この免許を直接、政府(総務省)が与えるなど、放送行政を司っているため、政府が免許の更新をしないという無言の圧力をかけたり、行政指導の形による圧力を直接放送局に加えることが可能になっている。(日隅一雄著「マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか」現代人文社)
(2) 系列化
 ネットワークの拡大に伴って、(新聞とテレビが系列化されたように)政治家も系列化された。地方民放は「政治家に作られた」といってもよいため、経営の実権を握っているのが経営者ではなく、政治家である例が多い。政治家にとって見れば、地方民放は資金源としてはたいしたことはないが、「お国入り」をローカルニュースで扱ってくれるなど宣伝機関としては便利なのである。各県単位で地方民放の派閥ごとの分配が行われ、政治家も系列化された。(電波利権)(地デジが生まれた本当の理由(読者ブログ版)
(3) 広告一業種一社制の不採用
 外国の広告業界では、原則として、広告代理店は1つの業種について、1社からしか受注できない。(1業種1社制)トヨタと契約したら、日産やホンダとは契約を締結することができないという原則だ。同業者はライバルなので、同じ広告代理店と契約したら情報が相手方に漏れるなどのおそれがあるし、自社が支払った費用で考えたネタが他社で使われる可能性もあれば、最大の得意先のために2位以下の得意先については手を抜く可能性もある。したがって、先進国では、この1業種1社制がとられている。

 しかし、日本では、常識からは考えにくいことだが、1業種1社制が採用されていない。このため、電通などの巨大広告代理店が存在し、マスメディアはその巨大代理店が存在し、マスメディアはその巨大代理店に財布を握られた格好となっている。(日隅一雄著「マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか」現代人文社)

 このように、日本のメディアは政府によって、がんじがらめになり、国民の知る権利よりも、自分の組織の中の立場ばかり考えるはなはだ官僚組織そのものとなっている。その点で、実は、欧米の民主主義を担う報道の苦悩とは、まったく別次元の問題なのだ。

インターネットは、メディアに民主主義を取り戻す最後のチャンス

 それでもニュースは書かれなければならない。官僚組織の都合の良い編集者による選別でなくて、真の国民の知る権利のために。僕は、「ニュースが消える日」で、ジャーナリストの3つの視点を考えた。

(1) 堀江氏のランキング中心説

 ジャーナリストの江川紹子氏は、堀江事件のとき、堀江氏とインタビューをしている。

——フリージャーナリストでイラクなどを取材している人がいても、今ではなかなか大きなメディアには載らない。そういうのを入れていこうとは思わないのか

 (この話は)重要だといって、あえて能動的に吸い上げようと? それって、メディアの意思が入っているじゃないですか。意思なんて入れる必要ないって言ってるんですよ。載せたいなら、読者の関心が低い記事にはお金は払えないけど、勝手にウェッブサイトに載せる分にはいいですよ。お金は払えないけど、来るモノは拒まずだから。

 ただ、それを紙に挙げる時にはランキングによる。そこのところで情報操作をする気はない。ランキングが一番になれば原稿もありますから、チャンスはありますよ。(そうした記事は)ウェルカムですけど、あえて収集するつもりはない。

 人気がなければ消えていく、人気が上がれば大きく扱われる。完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけだから。(「新聞・テレビを殺します」 〜ライブドアのメディア戦略江川紹子ジャーナル)

 編集者の意見によって、重要性の順番を変えれば、それは情報操作である。それよりも、読者の関心の高いほうに重要性を増すようにすれば良いという意見である。

(2) 江川氏の"志"や"矜持"を保ちたい説

一方、江川紹子氏はジャーナリストの精神性の問題を重視する。

 メディアがあえて報じていくことで、曲がりなりにも(現実にそれが十分にできているかは疑問だが)政治を監視する機会は保たれる。

 それがなければ、一般の人たちがなんだか分からないうちに、大事なことが次々に決められていく、ということになりはしないか。

 あるいは、イラク、アフガニスタン、アフリカ諸国といった外国の情報は、普段は気にもとめずに生活しているけれど、そういうことは知らなくてもいい、のだろうか。

 普段、気がつかなかった事柄を、新聞で読んで知るという機会もなくなる。それで、生活するには困らないかもしれないが、人間性や心を豊かにする機会を減らしてしまうことになりはしないか。

 また、"志"や"矜持"といったものを、すべて否定してしまうのには、私は抵抗を感じる。確かにそれは、「思い上がり」や「自意識過剰」に結びつく危険性がある


 けれど、様々な圧力、障害、誘惑などに直面することの多いこの仕事の中で、報道する者の"良心"が、そういう困難中でも真実を明らかにする原動力になることだって、少なくないのだ。

(中略)

 新聞社の中にだって、例えば事件取材をする際、被害者報道をどうするべきなのか、一生懸命考え、悩み、そして勉強している人たちもいる。被害者に話をしてもらってそれを元にいろいろ考えたり討論をする、という勉強会に参加をしている記者たちもいる(それが、最近『<犯罪被害者>が報道を変える』(岩波書店)という本にまとまった)。もちろん、そうした勉強をする時に、会社から手当が出るわけではない。その動機は、やはり報道する者としての"良心"だろう。


 普段、人々が気づかない、でも大事な話を掘り起こして提供するのも、そういう"良心"が原動力になる。


 そのような記者は、少数に見えるかもしれない。"報道の使命"を盾にして、強引な取材や報道は、今でもある。が、それは"使命"の受け止め方を間違っている。少数であっても、"志"を持ち、ジャーナリストとしての"矜持"を忘れない記者たちは、いい仕事をしている。間違った受け止め方をしている人がたくさんいるからといって、"良心"を否定するのは違う。本来の、"志"が広がっていくことに、私はまだ期待をしたいと思っている。(「新聞・テレビを殺します」 〜ライブドアのメディア戦略江川紹子ジャーナル)

(3) 佐々木氏の新聞は情報産業説

佐々木俊尚氏の意見は、新聞の現在のあり方に触れている。新聞は、既に言論・報道機関ではなく情報産業だと言い切っている。

経済合理性の観点からメディア戦略を構築しようとしているだけで、言論・報道機関を言論性でなく、むしろそうした色あいをできるだけ薄めた情報娯楽産業としかみていないのは驚くべきことといわなければならない。」という産経新聞の<主張>に対し、

 だが堀江前社長の一連の発言からは、現代のジャーナリズムが内在している問題点が浮かび上がってきているのも事実である。彼の発言はたしかに極論に過ぎるように思えるが、しかし「言論・報道機関を言論性でなく」「情報娯楽産業としかみていない」のを、なぜ産経新聞は不愉快と感じるのであろうか?そもそも新聞を、情報産業というビジネスを展開する企業として自己認識しているのであれば、このような反論にはならなかったはずだ。(佐々木俊尚著「ネット未来地図」文春新書)

そこで佐々木氏は、新聞をどう見ているのだろうか。J−CASTニュースにこんなインタビューが載っていた。
——現場の記者は、WaiWai事件をどう受け止めていますか。

佐々木   私がつきあっている30代の記者はメディア担当が多いので、リテラシーの高い人ばかり。彼ら(毎日新聞の記者)からは「毎日新聞はつらい。上に何を言っても理解されない」という声も聞こえます。

——具体的には、どんなところが「理解されない」のでしょう。

佐々木   例えば、双方向性を理解していないこと。言論がフラット化していることを理解していない。「ブログは素人が書いているもの」ぐらいにしか思っていない。1990年代まではインターネットもしょせんはマス媒体をウェブ化しただけで、言論のフラット化なんて起きなかった。だからそのころまでは彼らもネットをある程度は理解していたと思うのですが、2000年代に入ってブログの登場などソーシャルメディアが台頭してくると、言論は瞬く間にフラット化された。しかしこのようなソーシャルでフラットな世界というのは、その場に身を置いている人間ではないと皮膚感覚として理解できないんです。新聞社との人間とブログの人間は、違う言語空間に生きています。ほとんどの新聞社の人間はブログなんて見ていなくて、彼らにとって、ネットとは「アサヒコム」なんです。

——新聞とネットの距離感はいかがでしょうか。何らかの形で折り合いをつけないといけないと思いますが…。

佐々木 米国でも、オンラインで成功しているのはウォール・ストリート・ジャーナルぐらいですが、一般紙というよりは専門紙です。ニューヨーク・タイムズも減収で、日本の新聞社がこれからどういう方向に進めばいいのかというお手本となるべき新聞社が存在しない。国内に目を転じると、産経新聞のiza!は素晴らしいソーシャルメディアで、現場が「自分の記事が得体の知れないブロガーの記事と並列されるのが許せない」と、猛反対だったなか、社長の鶴の一声で開発が決まったものです。でも現状では新聞社の収益下落を救えるほどのパワーはない。ソーシャルメディアは儲からないんですね。あれが儲かれば、みんなが見習って、日本のメディアがソーシャルメディア化していくんでしょうけれど…。

——産経新聞のネットの取り組みはすごいですよね。

佐々木 ウェブ・ファースト(紙よりも先にウェブに記事が載る)ですし、会見全文を載せたり、裁判のライブ中継があったり…。一度掲載された記事が消えないのも魅力ですね。(「変態記事」以降も毎日新聞の「ネット憎し」変わっていない(連載「新聞崩壊」第3回/ITジャーナリスト・佐々木俊尚さんに聞く

しかし、佐々木氏は、堀江氏のときには、批判的だった産経新聞について、現在では、ベタ誉めだ。産経新聞はいったい何が変わったのだろうか。ともかく、産経新聞は、「言論・報道機関」としての"矜持"を捨て、佐々木氏の言う情報産業というビジネスを展開する企業として自己認識しているのかも知れない。佐々木氏の言うターニングポイント連載「新聞崩壊」第3回/ITジャーナリスト・佐々木俊尚さんに聞く)が近づいているのは事実であるが。
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