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素人だから言えることもある

独想の森で(ブログがなぜ続かないのか・4)

あるファンタジーの言葉から

 小説、ノンフィクションを問わず、文章で作者の想像しているものを説明するには、作者の表現力と読者の想像力が必要である。ブログを万人が書くといわれる現在でも、想像力の欠如した人間に説明するほど困難なことはない。子供のころ読んだファンタジーで培った想像力が、ブログを書いたり読んだりする力に役立っているのではないだろうか。だが、やがて大人はファンタジーを読まなくなる。そして、「ファンタジーは子供のころだけに許される夢の世界」であり、大人になると「現実世界の厳しさに夢など見てる暇などないよ」と言い訳をする。果たして、そうであろうか。僕は、むしろブログを書くには、ファンタジーの発想が必要だと考えている。

 「夢物語」の冒頭で、ミヒャエル・エンデの言葉を引用した。

絶対にファンタージェンに行けない人間もいる。いるけれども、そのまま向こうに行きっきりになってしまう人間もいる。それからファンタージェンに行って、またもどってくる者もいくらかいるんだな。きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」(ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店
 この言葉の中に3種類の人間が登場する。1. 絶対にファンタージェンに行けない人間。2. 向こうに行きっきりになってしまう人間。3. ファンタージェンに行って、またもどってくる者である。とりあえず、このファンタジーの中では、ファンタージェンを現実とは別の夢の世界としている。そういいながらも、冒頭のセリフのように、このファンタージェンと現実の世界を行ったり来たりしている人間ほど、この現実世界を健やかにすると述べている。

 ファンタジーの話をすると、俺には関係ないと、思考停止したり、受け付けない人がいる。だが、夢と現実の世界の話ではなくて、自分の世界と他人の世界の話かもしれない。なぜなら、他人の発想は、決して自分には理解できないからだ。また、これは、得意分野と不得意分野の話にも置き換えられるし、現在、続けているエントリー、「ブログがなぜ続かないか」で述べているプロと素人の問題にも置き換えることか出来る。プロは、自分の得意分野を守っていればいいと考えることで、自分の世界を狭く捉え、自分の世界を広げられないからである。

全ての新しい着想は異文化との出会いから起こった

 したがって、1. 絶対にファンタージェンに行けない人間。というのは、プロの世界に閉じこもって、他の分野に目もくれない人間ということになる。そして、その人間は外から見れば2. 向こうに行きっきりになってしまう人間。にも見える。どちら側も理解不能の壁を作っているからだ。したがって、得意・不得意を問わず、いろんな分野に顔を出す人間こそが、3. ファンタージェンに行って、またもどってくる者となる。

 歴史を学べば、多くの文化の発達が、他国の異文化とふれあい、学びあうことで、発展してきたことだ。私たちのブログもまた、いろんな世界を知ることで、独自の発想を育てていけるはずだ。

ブログは知識の森

 さて、僕のエントリーは、ほとんど全てのエントリーが、過去のエントリーとリンクで結びついている。まるで森のように、あらゆるエントリーが、絡み合い、一度踏み入れたら、抜け出られないような。というのは、大げさだが、知識というのはそういうものではないだろうか。エントリーを書くたびに、知識のタグが増えていき、CMではないが「そういえば今日の○○に出ていた」とか「あの○○の記事を使えば」と、活用できるし、現実に活用してきた。つまり、いろんな分野に顔を出せば出すほど、知識は広がり、過去の知識は現在のブログに役立てることが出来ると思うからである。
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