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素人だから言えることもある

生活と政治がつながるとき(福祉と政治・3)


かつて政治は生活と最も遠いものだった


 今年の選挙はいつもとまったく意味が違う。かつての森首相ではないが、若者が「寝ていてくれ」ても、政治はそれなりに動いた。それは、若者たちが、会社員として企業に就職し、きちんと所得税を払うことで国は成り立っていたからだ。政治に無関心でも別にかまわなかった。ところが、不況で政治そのものに生活を頼らざるを得なくなってくると、どうしても行政に不満を抱かざるを得ない。



 雇用の非正規化と不安定化が進み、職場がますます少数精鋭化する中で、心を病むサラリーマン、公務員が急増している。(中略)家族もまたしだいに重い問題を抱え込みつつある。介護問題など高齢社会の到来が家族にもたらした負荷については、比較的早くから認識されてきた。加えて、子供や若者の育ちや家庭内の暴力などにかかわる問題が広がっている。(中略)
 いずれも、働くことや学ぶこと、あるいは家族を形成することの根本的な意味にかかわる問題である。そのうち少なからぬ部分は、これまで存在しなかったというよりも、雇用や家族をめぐる慣行の前に、正面から問われることのないままできた事情でもある。だが事態は見て見ぬふりをできる水準をはるかに超えた。
 つまり、これまでの雇用や社会保障の制度が想定していなかった新しいリスクや生き難さが噴出しているのであり、ゆえにこうした問題群は「新しい社会的リスク」とも呼ばれる。
 これからは、その意味合いが半ば自明であった「生活保障」ではなく、生活の内容そのものを問い直す、「生活形成」のためのデモクラシーが求められている。(中略)
 人々はどう声を上げてよいかわからず、しばしば孤立しながら問題に対処し、途方に暮れている。しかしながらいずれも、多くの人々が直面し、その解決のためには人々の協力が不可欠となる公共性の高い問題群である。こうした福祉政治の新しい領域は、生活のあり方そのものにかかわる政治であり、ライフ・ポリティクスと呼ぶことができる。(宮本太郎著「福祉政治−日本の生活保障とデモクラシー」有斐閣Insight)


 もともと、日本という社会は、家族の問題を個人的なものとして、政治に頼ることを恥ずべき事だとしていた。いわゆる「自己責任論」がそうだ。



 しかし社会全体として危機感を共有するには至っていなかった。ホームレス、野宿者というのは、そういうことを好きでやっている人たちなんだろうねとか、社会生活したくない人たちなんだろうね、というふうに、いわゆる「自己責任論」でとらえる面が大きかったと思います
 私は、日雇い労働者や、母子世帯を「元祖貧困」と言っていますが、こうした貧困は高度経済成長期においても日本社会でずっと存在していたのです。でも、母子世帯の貧困を問題にしようとしても、自己責任論で、「離婚しなきゃいいでしょ」のひとことで終わりにさせられてきたわけです。ワーキングプアは、日本社会で昔からずっと存在していて、じつは大きな問題だったのだけれど、社会全体として問題視されるようになってきたのは、ここ3年ぐらいです。
 2000年以降、貧困が広がってきたのは、もともと存在した貧困に引っ張られてきた結果だと私は思っています。たとえば、低賃金で不安定で細切れのパート労働は昔からずっと存在してきました。そこに引っ張られて、非正規労働が若者などにも広がっていったのです。今や非正規労働の問題は、若者にも、男性にも、一般世帯にも広がってしまったのです
 そして、貧困が広がる状況は、正規労働者にも無縁のことではありません。今や「正規労働者の過労死か、非正規労働者の貧困か」ではなくて、「正規と非正規労働者の両方ともが過労死も貧困も無縁ではない」というような状態にまでなってきています。
 正社員の人たちは、日々崖っぷちを見せられています。「今のこの正社員のイスを失うともう後はないぞ」というわけです。そうすると、正規労働者は、企業側の無理難題を飲まざるを得ません。そして、労働条件も切り下げられるし、過労死や過労自殺するまでに追い詰められてしまうわけです。
 労働者全体が「NOと言えない」状態に追い込まれていっているというのがこの10年ぐらいの経緯ではないかと思っています。(自己責任回路・がんばり地獄を脱する反貧困スパイラルへ(湯浅誠氏「貧困も過労死もない社会へ」))


あるべきライフ・ポリティクス


 いまだに、福祉は困窮者だけの制度であると思っている人がいる。だが、それではあまりにも世の中を知らなさ過ぎる。宮本氏は、



コミュニティや家族をめぐる政治には、しばしば二つの対照的な解決策が示される。一方には、今日の変化の方向をふまえて、コミュニティや家族のあり方を刷新していこうとする流れがある。女性の就労や社会参加、家族に対する社会的サポートの強化、性的マイノリティの権利などが打ち出される。これに対して他の潮流は、今日の生き難さは家族の中での男女、親子の役割関係や道徳の揺らぎに起因すると考え、伝統的な家族や男らしさ女らしさの復権を唱える。あるいは伝統的規範にのっとった道徳的教育を求める。(宮本太郎著「福祉政治−日本の生活保障とデモクラシー」有斐閣Insight)


 後者の考え方は、いわば昔の政策ではうまくいったから昔の生活に戻せといっているのに等しい。多くの「自己責任論者」も後者であろう。かといって、新しい生き方を何でもOKとして家族のリスクを全てサポートすべきだとも思われない。この両者の議論からライフ・ポリティックスが生まれるという。



 たとえば、さまざまなケア、介護のニーズへの対応は、その性格上、行政主導で上から解決できることではない。当事者、家族などがやむにやまれず声を上げ、専門家、自助グループ、非営利組織(NPO)がこれを支え、行政、ケアワーカーなどが協力して解決の道を模索する以外ない事柄である。専門家と行政と当事者、家族などの間には、明らかな情報の非対称性があり、関心のずれもある。人々は本音でぶつかり合うことを余儀なくされ、それぞれの問題に唯一の解決策などというものはない。
 しかしながら、熟議のはてに問題の解決につながった時には、地域社会への見返りは大きい。人々の社会参加にかかわる困難が克服され、より多くの人々が、ケアを受ける側からより能動的に地域社会を支える側に回るならば、それは地域社会の人的資源の有効な活用につながる。また、孤立していた人々が声を上げて新しいつながりができるならば、そのこと自体が新しいコミュニティの形成となり、人々相互の信頼関係、すなわち社会関係資本を生み出していく
 つまり、ライフ・ポリティクスは、人々の参加保障のための政治でもあり、地域社会の活力や発展とも連携した政治なのである。それは、戦後日本の福祉政治が分断の政治に陥る中で縮小してしまった公共の討議空間を拡大していく可能性がある。(宮本太郎著「福祉政治−日本の生活保障とデモクラシー」有斐閣Insight)


 全てを自己責任と矮小化し、相手を攻撃しているだけでは、福祉の問題は解決しない。「福祉と政治、何が問題なのか、改めて考える。」のアンケートで、北欧型の高福祉社会を夢見ている日本人であるが、デンマークの高福祉社会も



デンマークモデル(フレキシュキリティ)は、100年近くの長い年月をかけて(政労使3者合意により)構築された福祉国家を基盤にしたものであり、直ちに他国に輸出できるものではない。」(デンマーク・ラーセン教授)(独立行政法人 労働政策研究・研修機構 デンマークのフレキシキュリティと我が国の雇用保護緩和の議論)(簡単に、ワーク・シェアリングと言うけれど)


というように、時間をかけてじっくりと語り合うしか方法がないのである。どちらが政権を握るにしろ、選ぶべき政治家は、じっくりと有権者の悩みを聞いてくれるタイプでないと、後で損をするのは私たち有権者である


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