夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

中島梓氏の手塚治虫論(「コミュニケーション不全症候群」から)

言語力低下とおタクと「コミュニケーション不全症候群」のために、中島梓氏の「コミュニケーション不全症候群」(筑摩書房)を読んだが、その中で触れられた手塚治虫作品の話が大変興味深かった。今回のエントリーは、「コミュニケーション不全症候群」の手塚治虫に関する部分で構成した。今回、コメントを避けたのは、オリジナルな文章を読んでもらいたいと思ったからだ。

手塚治虫とジェンダー・アイデンティティ

「美少年なんか怖くない」の章から(p217〜218)
 手塚治虫少年マンガのみならず少女マンガも、成人向けのものもかいたが、そのすべてを通じて彼こそはもっともJUNE的なマンガ家であり、彼の究極のテーマのなかにはつねにジェンダー・アイディンティティがあった。

 彼もまた(というよりこちらがフロンティアなのだが)幾度となく両性具有を描き、好んで少女の男装、少年の女装をとりあげた作家であった。「リボンの騎士」では「男の心と女の心」をあやまって両方持って生まれてしまった姫君サファイヤの男女の双生児デイジーとビオレッタが主人公となった。

このうち王子のデイジーは悪人に捨てられてしまい、王女のビオレッタが一日おきに少年のかっこうと少女のかっこうをして、兄の役をも同時につとめなくてはならないのだ。


そして彼女が隣国の王子と恋に落ちると、それは良い「白い王子」と悪い「黒の王子」の兄弟であって、男と女の双面を持つ存在が善と悪の双面とからみあうというきわめて象徴主義的な構図が描き出されるのだった。

彼は終生この双面のテーマに憑かれており、「エンゼルの丘」では赤の他人でありながらうりふたつのあけみとルーナ、「白いパイロット」では王子マルスと少年大助のどちらがクローンであるかというテーマ。「キャプテン・ケン」では少年ケンとその母親水上ケンとがうりふたつであり、手塚治虫にとっての永遠のテーマこそは自己同一性の問題であったのであろう。

また「バンパイヤ」のロック、「MW」の主人公結城、鉄腕アトムなど女装する主人公は随所に見られ、同時に「どろろ」のように男装する少女、「やけっぱちのマリア」の妊娠する少年、「鉄腕アトム」の両性具有のベム、「人間ども集まれ」の第三の性と呼ばれる無性人間たち、など、つねに——といってもよいくらい、手塚治虫の世界はジェンダー・パニックの異形の群に満ちているのである。(中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)

「最後の人間」の章から(p241〜244)
家族が必要ならば父や母を——鉄腕アトムが生まれてから、「家族がいないのを気の毒に思って」お茶の水博士がアトムに「パパとママと弟のコバルトと妹のウラン」を作ってくれたように——だがアトムはこの厄介な、何かというと悪人たちにひっさらわれて人質になって彼に迷惑をかけるだけの役割をしょった家族をあまり有難がっていたようにも見えない。彼が「お父さん」と呼ぶのはただひとり、彼を(いつまでも人間の子供のように成長しないで少年のままだというので)捨ててしまった天馬博士だけでしかないのである。

 「鉄腕アトム」は、それについては手塚治虫についてちょっと述べた箇所でもくわしくふれてはこれなかったが、実をいうとあらゆる意味で、ここに書いてきたような症例の前駆症状、最初の象徴にほかならない。家族関係についてもいま書いたとおりだが、アトムが唯一恋をしたあいては中性であるロボット爆弾「ベム」であった。


ベムは少女のかっこうもしていたし、少年にもなれた。同時にアトムも実は中性なのであり、「アトム大使の巻」では「これが問題のロボット少年か。少女のように可愛らしいではないか」という形容があるだけでなく、アトムは何回か女装もしている。アトムとベムの不毛な恋物語はある意味で「風と木の詩」のプレリュードそのものだった、といっても少しもおかしくないのだ。

 手塚治虫自身はアニメに夢中になった最初の少年であった。

そしてまた、彼のマンガはすべて、男女両方の心をもった少女、第3の性である無性人間、中性である成長できないロボット少年(これは多少「ブリキの太鼓」の世界を思わせるものがある)、少年殺人鬼(「バンパイヤ」のロック——彼も女装するのである)、兄の役を男装してつとめなくてはならない双子のかたわれの王女、そして何かのきっかけで獣に変身してしまう種族であるバンパイヤ、そしてまた妊娠してしまう少年や体の部分を実の親によって魔物に売り渡されてしまった、目も鼻も口も手足も本当はつくりものである少年や生きのびるために男装している少女、といった「非抑圧階級」からの告発ともいうべきシチュエーションにみちている。

そうした視点から手塚治虫を語る作品論をまだあまり見ないが(もちろん私の不勉強だけかもしれないが)、実際にはこれは手塚治虫を論じるにあたって最も重要なファクターであるのであり、「人間ども集まれ」において無性人間が、「バンパイヤ」においてバンパイヤたちが、そして「鉄腕アトム」の「青騎士の巻」でロボットたちがそれぞれ革命をとなえて立ち上がるモチーフこそは、手塚治虫をコミュニケーション不全症候群の時代にとってもっとも重大たりうる最初の作家にしたのだった。

 集団としての反乱、革命ばかりではない。女装しては殺人を犯すロック(それはまた「MW」の結城の前身でもあるだろうが)は貧しい書生であり、そのために差別されていると感じている小ラスコリニコフである。

ジャングル大帝」のレオにせよ、おそらく自然の中にあってはアウトサイダーであろうはずの「白いライオン」であり、そのライオンやロボットや無性人間が「ライオンだって人間だ」「ロボットだって人間だ」「無性人間だって人間だ」という視点にたって「ライオンは人間ではない」「ロボットは人間ではない」「無性人間は人間ではない」という正常・異常の差別を行う人間社会に反逆したとき、手塚治虫ははからずも、そのうしろに続くたくさんのおタクたち、JUNE少女たち、食行動の異常の少女たち、すべての抑圧されたものたちを代表していたのであった。

 そのなかでももっとも端的であったのはやっぱり「どろろ」の百鬼丸であるだろう。

実の父親の出世欲のために魔物にその体の各部分をうばいとられ、魔物を倒してそのたびに手や足や口、声や目を取り戻さなくてはならない百鬼丸はあまりにも、それが描かれてから二十年ほどして私たちのおちいっているこの現代の状況を象徴している。

実際に百鬼丸がとりもどした手足や声が、天才人形師の作ってくれた人口の手足や声帯が出す声よりも有能であったかどうかはまったく保証できないのだが、しかし百鬼丸はともかくも<人間>に戻らなくてはならぬ。実の親のエゴによって目も鼻も口も手足もなにもない芋虫のような赤ん坊にされてしまった百鬼丸が生きのびるには、たとえどのような魔物とたたかい、取り戻すのはどういうパートであるにせよ、ともかく本来自分自身であったところのものをすべて取り戻す以外にはないのだ。

 百鬼丸こそは、社会と時代とによって自分の「居場所」を奪い取られ、それを人工の幻想のなかに見つけてこそ生き延びなくてはならなかった現代の弱者たちの姿の予言であり、しかしその後これほどまでに社会中に満ちるにいたった現代の百鬼丸たちはその先達の寓話をいっこうに寓話としてしかうけとるようすがなく、何もその自己をとりもどそうとする困難な勇気のいるたたかいに挑んでいっていないように見える。

おそらくJUNE少女たちはまた別として——というのも、かねがね「小説道場」を通じて私は、彼女たちにとってはJUNE小説を書いて自己の内面世界とむかいあってゆく、ということが、はからずしてさながら精神分析の自由連想法と同じ効果をもたらしているようだ、ということに気づきはじめているからだが——おタクたちはそのようやく見出した「どこにもない自分の国」——幻想の都市のなかにすっかり居心地よく住みついていまやそれなりの秩序さえ作り始め、また食行動異常もとうとう現代においては「そういう連中もいるらしい」という認知を獲得してしまったようにさえ思われるからだ。(中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)


ブログパーツ