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読む人が持ち帰るお土産は何か(知識を伝える・2)

「カールじいさんの空飛ぶ家」と「つみきのいえ

 このエントリーは、「知識を伝える」の第二弾。アニメ「カールじいさんの空飛ぶ家」を見た。ストーリーは、妻を失った偏屈な老人が、妻との約束を果たすために、自分の家とともに冒険に出るというものだ。なぜ、元気なころには冒険に出ず、年を取ってから冒険をするのか。製作総指揮のジョン・ラセターは言う。
この映画では、人生最大の冒険に出るチャンスを逃してしまったと後悔する78歳の老人カール・フレドリクセンが、ついに念願の冒険に旅立ち、その経験を通して、人生最大の冒険は、愛する人々との平凡な日常にあったと気づくのです。(カールじいさんの空飛ぶ家・映画プログラムより
 これは、監督のピート・ドクターのこんな経験から始まった。
ヨーロッパに行った時の家族旅行で最も心に残ったのが、古城の景観などではなく、「家族で一緒にデパートの喫茶店でココアを飲んだという出来事」だったという経験だ。現実から脱出したカールじいさんもまた、旅の中で人生を学ぶ。人生の大冒険とは日常生活で起こるささやかな出来事の中にあるのだ、と。(カールじいさんの空飛ぶ家・映画プログラムより)
 家の中には、家族の思い出がこもっている。つまり、カールじいさんにとって、家は亡き妻をあらわす。そんな、老人と家の関係で思い出すのは、アカデミー賞受賞の「つみきのいえ」である。ストーリーはこうだ。
海面が上昇したことで水没しつつある街に一人残り、まるで「積木」を積んだかのような家に暮らしている老人がいた。彼は海面が上昇するたびに、上へ上へと家を建て増しすることで難をしのぎつつも穏やかに暮らしていた。ある日、彼はお気に入りのパイプを海中へと落としてしまう。パイプを拾うために彼はダイビングスーツを着込んで海の中へと潜っていくが、その内に彼はかつて共に暮らしていた家族との思い出を回想していく。(つみきのいえ-Wikipedia)
 このアニメの発想の元は、加藤久仁生監督と脚本家の会話からだという。
—— 「つみきのいえ」は、昨年のアヌシー国際アニメーション映画祭でもグランプリを受賞しています。国内はもとより、そのボーダレスな映像イメージから海外からの支持が多い印象を受けます。この作品はどのような製作過程から生まれたんでしょうか?

加藤 最初にビジュアルのイメージ画を描いたんです。積み木のような家が積み重なっているものなんですが、それを脚本家の平田研也さんに見せて「何か考えられないか」と。
 イメージ画を見た平田さんが「沈んでいる家の層にはその時代の思い出が沈んでるんだ」という発想をして、そこから大まかなストーリーラインを考えてくれました。イメージ画から組み立てていくという形は「或る旅人の日記」も同じ感じでしたね。(ASC�.jp: 加藤久仁生監督に聞く、ネットアニメの現在地

つみきのいえ」を見ると、階層を潜るたびにどんどん若い時代の回想が甦る。一方、「カールじいさんの空飛ぶ家」では、この回想シーンは、映画の前半にセリフなしにコンパクトにまとめている。

 私たちは、なぜこれらのアニメに感動するのだろう。老人と同様、家の中に私たちの人生が詰まっているからだ。初めから、まったく違った空間で行われていたら、これほど感情を揺さぶられることはないはずである。

「観る人たちが持ち帰る“お土産”は何かね」

 「カールじいさんの空飛ぶ家」では、当然ながら敵役が登場する。これもまた94歳の老人、冒険家のチャールズ・マンツである。カール夫妻が熱狂的にあこがれ、パラダイスの滝への冒険を決心させた冒険家である。マンツは、謎の怪鳥の骨を発見したが、冒険家協会からニセモノとされ、名誉を剥奪された。彼は、その怪鳥を発見するためにパラダイスの滝周辺に大勢の犬とともに住み込んでいる。マンツが、結局南米から出られないのに対し、カールじいさんは最後に亡き妻の思い出のこもる家を滝のそばにおいたまま、日常の世界に戻る。

 僕は、「夢物語」に「はてしない物語」を引用した。

 「絶対にファンタージェンに行けない人間もいる。いるけれども、そのまま向こうに行きっきりになってしまう人間もいる。それからファンタージェンに行って、またもどってくる者もいくらかいるんだな。きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」(ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店
 つまり、チャールズ・マンツとは、「そのまま向こうに行きっきりになってしまう人間」であり、カールじいさんは、「ファンタージェンに行って、またもどってくる者」にあたる。日常から、夢(冒険)の世界に入り、日常に戻る。これは、また私たちの行動にも重なる。たとえば、日常から映画(夢) の世界に入り、日常に戻ることでもある。そして、優れた夢ならば、心の中にお土産を残してくれる
 ファンタージェンは人の夢が集まって出来ている夢の世界だ。ファンタージェンに行くにはさまざまな方法がある。眠りに落ちて夢を見るのももちろんだが、小説を読んだり音楽を聴いたり、映画を見たり、旅に出たり、人に会ったりしてもいい。それをきっかけに、未知に触れ、今まで失っていた何かを手に入れ自分を大きく開くもの、それが「夢」なのである。「夢」は非現実的で、はかなく幻のようなものだと人は考える。だが、現実には「夢」の産物があふれかえっているのである。映画も音楽も演劇も小説も、すべての文化・文明は自らの「夢」を他人に伝えようとした者、言い換えれば、「夢」の世界から戻ってきた者によって作られているからだ。「夢」の中で自分の真実を見出して、新たな自分を作っていく作業、これは一生の大事業である。(夢物語)
 「カールじいさんの空飛ぶ家」のカールじいさんにはある人物からインスピレーションを得たからだという。
「白雪姫」(37)の製作メンバーであり、「ファンタジア」(40)や「ダンボ」(41)の脚本家として活躍し、2005年に97歳を迎える1週間前に亡くなったジョー・グラントだ。彼の口癖は、「観る人たちが持ち帰る“お土産”は何かね」だった。この言葉に導かれ、観た人の心にいつまでも残る、キャラクターに根ざした本物の感情を描く物語が紡ぎ出されていった。(カールじいさんの空飛ぶ家・映画プログラムより)
 つまり、観客の日常をカールじいさんに投影することで、この作品は成功している。そして、この映画というファンタージェンから持ち帰る“お土産”とは、「ファンタージェンに行って、またもどってくる者」の証明であり、優れた映画は、いつまでも見た人の心に残るものだということだ

 僕は、ブログエントリーでも、これが可能だと考える。優れた知識は、時間がたっても、心に残るものであり、決して古くならないからだ。たしかに、そのときは、ニュースに惹かれて読むかもしれない。でも、ただの感想だったら、もう一度読み返すことはないだろう。でも、このニュースは、何かあれと似ているとかと思ったら、もう一度読み返すかもしれない。そのとき、他のニュースにつなぐ大きな取っ掛かりがそこにあれば、十分“お土産”になるのではないか。だから、ただの引用でも、多めに引用しようと思う。作者の感情とは別の場所の文章で読者の心に引っかかるかもしれない。そして、いつ、どこで、誰かの心にひっかかり、“お土産”になるかも知れないから。


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