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素人だから言えることもある

ゲームのような映画「AVATAR」考(ネタバレあり)

 FF13が「映画のようなゲーム」(映画のようなゲームFF13考参照)ならば、映画「AVATAR」は、ゲームのような映画だった。アバターという言葉は、主にゲームで使われる。

アバターとは、チャットなどのコミュニケーションツールで、自分の分身として画面上に登場するキャラクター。ゲームの主人公キャラクターのことはアバターとは呼ばない。(IT用語辞典)
 FF11など、オンラインゲームでもユーザーの代わりに使われている。一方、映画「AVATAR」のアバターとは、
“アバター”とは、地球人とナヴィのDNAを遺伝子操作によって合成して作り出したハイブリッドの肉体で、特殊な装置によって意識を転送、リンクされた人間の“ドライバー”が遠隔操作することによって、生命体に成り活動が可能になる。(映画「AVATAR」プログラムより)
 このナヴィとは、映画に登場するパンドラという惑星の宇宙人の名称である。ゲームのアバターがいかにリアルであっても、結局は肉体を持たないのに対し、映画では「ハイブリッドの肉体」が必要となってくるが、ともかく、形としては、ゲームのアバターと発想が同じであることは十分に理解できるだろう。監督の、ジェームズ・キャメロン
脚本を書き始めたのは、1995年。だが、惑星やクリーチャーを考え始めたのは、僕が10代の頃だ。僕はSFの大ファンで、子供の頃は、ありとあらゆるSF小説を読みふけっていた。この映画は、その集約なんだ。僕は、まったく新しい世界を舞台にしたSFを書きたかった。見たことのないクリーチャー、見たことのない光景、それは、巨大なチャレンジも意味した。何もかも、一から創作しなくてはいけないのだから。(映画「AVATAR」プログラムより)
 キャメロン監督は、おそらく文才があれば、SFとして書いていただろう。また、ゲームクリエイターだったら、ゲームにしていたかもしれない。クリエイターだったら、自分の夢を現実化するために努力を惜しまなかったに違いない。いかに、キャメロン監督がこの作品に心血を注いだかは、スタッフの次の言葉に表れている。
ジェームズ・キャメロンは、遠く離れた世界を舞台とした映画を作ったというだけではありません。まるで彼が実際にあの場所へ旅して、大量のメモをとり、戻ってきて彼が体験したあらゆる出来事を紙に書き出し、その後で映画を作ったようなものです
「ジムと調子を合わせるのは大変でした。彼は創り出しただけではなく、自分が見た世界を紹介しているからです。彼はその世界を目にして、我々に報告していたんです。ジムのデザインに対するアイデアを聞いていると、あまりに詳細にわたっているので、あの架空の動物たちが本当に存在しているような気がします。それほど彼はすべての動植物について考え抜いていました。彼は、それらが何を食べ、どこで眠り、互いにどんな行動をとるかまで把握しています」(プロダクション・デザイナー リック・カーター/映画「AVATAR」プログラムより)
キャメロン監督もまた「ファンタージェンに行って、またもどってくる者」(ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店)だったのである。この言葉に関しては、「読む人が持ち帰るお土産は何か(知識を伝える・2) 」を参照して欲しい。

 面白いことに、主人公の地球人であるジェイクが、地球に帰らず、ナヴィとして惑星パンドラに残る結末である。これは、キャメロン監督が、もしそのような世界があれば、そのまま行ってしまいたいと思っている事を意味している。その点で、「カールじいさんの空飛ぶ家」のストーリーとまったく正反対となってしまっている。これは、スピルバーグの「未知との遭遇」の主人公がマザー・シップに乗り込み、宇宙に飛び出す結末に似ている。キャメロンもスピルバーグもその夢に恋するあまり、「そのまま向こうに行きっきりになってしまう人間」であることを意味している。
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