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素人だから言えることもある

私たちの心の中に潜む「小沢一郎」的部分

 このエントリーは「誰も小沢さんがわからない」の続きである。そのエントリーに書いた「誇大自己症候群」と小沢氏の経歴を読み比べ、このような性格はどのような理由から来たのか、そして現代社会にはそのような性格の人間が非常に多くなっているのはなぜかを考える。参考にしたのは、岡田尊司氏の「誇大自己症候群」(ちくま新書)と文藝春秋3月号に載っていた評論家の福田和也氏の記事「小沢一郎の小さな『器量』」から。改めて言っておくが、このエントリーは小沢氏を批判するのが目的ではない。小沢氏の言動から導かれた理由から小沢氏を理解しようというためである。

政治家に多い「誇大自己症候群」

 福田氏は、「小沢一郎の小さな『器量』」(文藝春秋3月号118頁)の中で小沢氏の経歴をこう書いている。
 小沢氏は父・佐重喜氏の44歳のときの子供であったために、生まれたときから「政治家の息子」だった。中学三年生のときには郷里の水沢市を離れ、父と東京・湯島で暮らしはじめた。多感な時期に周囲にいた大人は、政界の関係者ばかりだっただろう。

 慶大経済学部を卒業後、日大大学院法学研究科に進学し、弁護士を目指していたが、1968年、父が病死したことで、運命が急転する。父の後を継がなければならなくなったのだ。このとき小沢氏は自民党幹事長だった田中角栄に預けられ、その薫陶を受けて出馬し、1969年、27歳という若さで初当選を果たした。

 この経歴から読み取れるのは、小沢氏のいる世間が非常に狭いことだ。実社会を知らずに政治家になってしまった。就職し、働いてお金を稼いだこともない。これでは様々な種類の人間と出会う機会は得られない。

 一方、叩き込まれたのは外では通用しない「永田町」の論理である。自民党はすでに一つの会社のようになっており、出世しようと思えば、上っていく階段は決まっていた。そこでは当選を重ねなければ、大臣や党内の重要な役職にはつけない。当選回数人事が貫徹されていた。しかも小沢氏が所属した田中派は「一致団結箱弁当」といわれるぐらい結果が固かった。小沢氏は田中派という枠組からしか、外の世界を見ることができなかっただろう。

(中略)

 つまり、小沢氏は永田町の論理にどっぷりと浸かり、それに順応することで地位を高めていった政治家だ。
 永田町で接するのは自分に対して下手に出て、何かを頼んでくる人間か、命令を聞かなければならない目上の人間だけだっただろう。そこには対等な人間関係というものがまったくない。政治家に不可欠な多種多様な人間を見る目を養う機会にも恵まれなかっただろう。(福田和也著「小沢一郎の小さな『器量』」文藝春秋3月号)

 「誇大自己症候群」の著者、岡田尊司氏はその特徴として、
 誇大自己症候群の人にとっての対人関係の特徴は、所有と支配という色合いを帯びるという点である。誇大自己症候群の人は、相手を自分の思い通りにしようとする。相手の思いを汲み取るのではなく、自分の思いを押しつけようとする。相手の気持ちに関係なく、自分の意向に従わせようとするのである。

 誇大自己症候群の人は、相手も同じように意志や感情をもっていることが、そもそも理解できないか、頭ではわかっていても、それに対してほとんど配慮や関心を払わない。自分の考えだけが正しくて、一番よいと思っているので、それを受け容れない人は、愚かで悪い人とみなされてしまう。自分の思い通りになり、意のままに支配できる存在は「可愛い」存在であり、そうでない存在には「むかつく」のである

 自分の独善性や強引さには目が向かず、むしろ、思い通りにならないことに対してプライドを傷つけられ、辱めを受けたように感じ、激しい怒りや憎しみを覚える。そのため、誇大自己症候群の人の愛は、容易に正反対の感情に変わってしまう。もっとも愛していたはずのわが子と骨肉の争いを演じるということも、よく見られるのである。(岡田尊司著「誇大自己症候群」ちくま新書)

私たちはなぜ小沢さんが理解できないか

 簡単である。「誰も小沢さんがわからない」で書いた10の項目はすべて「自分だけ」の論理で動いているからだ。小沢さんは、説明しているというが、小沢さんの心のうちではすでに完結していることだから、マスコミが騒ぐのが不思議でならないのである。そこには対等な人間関係はない。相手がどう思うかなんか考えていないのだ。小沢さんが一年生議員を手なづけているように見えるが、彼らだって小沢さんじゃないから小沢さんの気持ちなどわからない。それより、嫌われることが恐ろしいと思っているからおとなしくしているとしたら、それこそ日本の不幸である。

 ともかく、政治家に限らず、このような「誇大自己症候群」の人間が増えているという。それは、相手と対等な人間関係がきづけないからだ。前項「映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション」では、山田洋次監督の

 吟子と小春の親子は、単に血がつながっているというだけじゃなくて、対等に話し合える知性的に結ばれた間柄だと思います。何が正しくて何が間違っているか。きちんとお互いの価値観を定義でき、近代人としてのつながりを持っている。(「おとうと」パンフレットより)
という本来のコミュニケーションが崩壊し、相手の思いを汲み取るのではなく、自分の思いを押しつけようとする人間ばかりになっているのではないか。どんどん日本人が孤立化の道を進んでいるのではないか、そんな気がしてならない。
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