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素人だから言えることもある

iPadの「革命」「反革命」論争(ホームサーバの戦い・第57章)

なぜ「革命的」という言葉を使ったのか

 前項「なぜ、iPadは革命的か(ホームサーバの戦い・第56章)」で、僕はわざわざ「革命的」という言葉を使った。もちろん、「コンピュータに慣れた人しかアクセスできないものがそうでない人もアクセスできるようになる」という点で、インターネットの楽しみをパソコンを持たない人にも、広がるチャンスとして捉えたのだが、もう一つは4月19日に産経新聞に載っていたiPadは「恐ろしき反革命」? 世界の紙面からの記事に反論したくなったからである。そこにはフィナンシャル・タイムズ(英国)、北京晩報(中国)、タイム・アジア版(米国)の三紙をとりあげている。その一部を引用してみる。
 インターネット利用者は既存メディアから記事や映像を一方的に提供されるより、自ら情報を発信し、情報の海を航海するのを好んだ。しかし、iPadではネット販売されているビデオやテレビゲームのソフトがより簡単に操作できるため、利用者を受動的なカウチ・ポテトに逆戻りさせる懸念があるからだ。(フィナンシャル・タイムズ)

 北京紙、北京青年報は「iPadはまだ中国で売り出されていないが、すでに多くのコピー商品メーカーが模倣している」と指摘し、ある深センの製造者の話として、「すでに多くのメーカーが鋳型を持っている。本物が手に入れば再び基本ソフト(OS)を整えて売り出す」と現状を報告する。法制晩報は、中国でiPad製造を請け負う工場が30万人の従業員を募集すると報じており、本物の品薄が続くほど、“東風”に便乗したコピー商品にとっては好ましい状況となりそうだ。(北京晩報)

 iPadが今後のPCのあり方やユーザーにもたらす変化については、軽くて持ち運びに便利な特性を生かして「家庭内で家族全員が共有できるようになる」と予想。その半面、音楽や映画を作って発表するといった創造的な面よりも、電子書籍やゲームをダウンロードして楽しむ方向へ機能がシフトしていると指摘した上で、「(iPadは)人々を受動的な消費者に逆戻りさせる。そういう意味では後退だ」と結んでいる。(タイム・アジア版)(iPadは「恐ろしき反革命」? 世界の紙面から)

 中国の北京晩報は、たまたま起こった上海万博の盗作騒動とあわせて読むと、「だから中国は」と言う論調になるのは簡単に予測できる。一方、残りの2紙はなぜかまるで同じ記者が書いたのかとまで思わせるのだ。つまり、膨大な数の「世界の紙面」からこの2紙を選んだのは、産経新聞のiPadに対する編集方針がそこににじみ出ているというしかない。

危機感を感じられないマスメディアの姿勢

 どちらも特徴的な言葉がある。それは「利用者を受動的なカウチ・ポテトに逆戻りさせる」「人々を受動的な消費者に逆戻りさせる」という言葉である。その言葉通りなら、今まで利用者は主体的に行動していたことになる。その主体的な利用者とは誰か。フィナンシャル・タイムズ紙では
インターネット利用者は既存メディアから記事や映像を一方的に提供されるより、自ら情報を発信し、情報の海を航海するのを好んだ。(iPadは「恐ろしき反革命」? 世界の紙面から)
であり、タイム・アジア紙では、冒頭に
米誌タイム・アジア版は4月12日号の記事で、情報発信ツールとして発展してきたコンピューター(PC)が、米アップルのiPadの普及により、情報の受け手側がコンテンツを手軽に楽しむためだけのものへと変化するのではないか−と予測。「(iPadは)初めての、本当の意味での家庭用PCになるかもしれない」と、やや皮肉を込めて論評した。(iPadは「恐ろしき反革命」? 世界の紙面から)
とあるだけである。つまり、両紙とも、今までのようにパソコン分野で情報を発信していればいいものを、わざわざリビングに登場することで
しかし、ニュース、映画、ゲームなどコンテンツが豊富であるがゆえに利用者を受動的にしてしまい、ネット利用者が本来持つ発信力を後退させる「反革命的」商品との指摘もある。(iPadは「恐ろしき反革命」? 世界の紙面から)
と言うのである。

 だが、この論調はあまりにも読者を馬鹿にしていないだろうか。もちろん、豊富なコンテンツにおぼれ、受動的な利用者も少なからず生まれるだろう。しかし、これらの豊富なコンテンツがあるからこそ、様々な分野に発信できるチャンスも増えていくと考えることもできるのではないだろうか。

マスメディアこそ受動的な人間を必要とする

マスメディアがマスメディアとして成り立つためには、一方的な読み手が必要である。マスメディアが主導の世の中では、少ないコンテンツを一方的に投げかけるが、iPadが示す将来の世の中は、豊富なコンテンツの中から取捨選択でき、そこに欲しいコンテンツがなければ自ら発信できる読み手と書き手が混在する世界である。まさに、
誰もが発言できるということは誰も発言する権利を独占していないことだ。市場に例えれば、旧来のジャーナリズムは独占市場で、ブログは競争市場だ。なぜ新聞社がネットに対応できないのか。それは独占企業にとっての最適戦略は競争的な市場では機能しないからだ。(なぜ誰もあなたのブログを読んでくれないか
 そのような世界で、受動的な読み手だけ集めればいいという関係は存在できない。読み手も発言するし、聞いてもらうためには相手を納得させる努力も必要だ。ところが、この記事にはその視点がない。もともと、未来が予測できないのだろう。相手を嘲笑することに気を取られ、自らの立場を忘れている姿しか見えない。
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