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素人だから言えることもある

マツダの事件と秋葉原をつなぐもの

再び「誰でも良かった」事件、突発する

 また、無差別殺傷事件が起こった。何でも、2年前の秋葉原の事件の模倣であるという。
「秋葉原事件のようにする」マツダ11人殺傷

 広島市南区のマツダ本社工場に22日朝、乗用車が侵入し、男性従業員を次々とはねて1人が死亡、10人が重軽傷を負った事件で、殺人未遂容疑などで現行犯逮捕された広島市安佐南区上安、元マツダ期間社員引寺(ひきじ)利明容疑者(42)が県警の調べに、動機について「マツダに恨みがあった。(17人が殺傷された)秋葉原事件のように、包丁でむちゃくちゃにしてやろうと思った。車を止めて包丁を振り回すつもりだった」と供述していることがわかった。(読売新聞6/23)

 このような事件が起こると、ワイドショーでは「理解できない」の連発になる。しかし、それではこの手の事件が続発するのは避けられない。僕は、秋葉原事件のとき、「誰でも良かった」犯人は、誰でもなかったその他大勢の一人というエントリーを書いたことがある。この事件のとき、犯人はケータイでメールを乱発する。その中で、読者の中から共感を得た言葉があった。
人が足りないから来いと電話が来る 俺(おれ)が必要だから、じゃなくて、人が足りないから 誰が行くかよ(毎日新聞・誰でもよかった:秋葉原通り魔事件/上(その1) 孤独な心情、サイトに・リンク切れ)
 犯人は、自分が自分であり続けるのに疲れ、自分を見下した社会に怒りを覚えたのではないか。

生存本能が機能しない社会

 「ショートカットな人生、ショートカットな社会」で、こんな言葉を引用をした。
貧困感覚とは実に相対的なのである。これを証明してくれるかのように、ある社会学者が実に的確な分析をしている。つまり、「生きることに最大の関心を向ける、経済的困窮度があまりに高い国では自殺率は低い。経済発展途上の、チャンスに満ちた国も然り。経済的豊かさを一度体験した後、深刻な不況や失業の渦中に身を投じ、富裕層の生活を見ることを通じて、『自分は疎外されたと絶望感を抱く』人が増えると自殺率は急上昇する」と記している。(なぜ自殺者は増え続けるのか━雇用不安と窮乏感の病理 14年後の日本考(2))
 経済的困窮度があまりに高い国とは、かつて戦争や飢餓など貧困にまみれたアフリカ諸国などである。このような国では、国全体のGDPも低く、識字率も低い。しかし、日本のような豊かな国に比べて自殺率は低い。それはなぜか。社会全体が困窮しているから、一緒に手を結んで頑張ろうと思うのである。

 ところが、現在の日本のように、豊かな人と貧しい人が共存していると、「あいつが豊かなのに、俺は何で」と思う。深刻な困窮状態になると、もう立ち上がれなくなり、自殺を選ぶか、いっそやけになって「あいつも道連れに」とか「誰でも良かった」とか言って犯罪を選ぶ。つまり、経済的困窮度があまりに高い国では、生存本能が動くのに、ある程度豊かになって、突然困窮になると、生存本能は効かず、自殺や犯罪に向かってしまう

コミュニケーションがない国

 日本は、ギリシャのように、このような困窮者が手を組んで暴動を起こすだろうか。僕は、日本ではそれはかなり難しいのではないのかと思う。暴動を起こす前に、自分のせいにしてあきらめてしまうだろう。

 たとえば、孫氏の理想と夏野氏の悲嘆(孫正義VS池田信夫「光の道」対談(夏野剛司会)を読む) で「iPhoneを発想できなかった日本」を引用した、

タッチ・パネルについて日本のメーカーや携帯電話事業者がディスカッションすると「入力が難しいんじゃないか」「ユーザーが受け入れないんじゃないか」といった否定的なことを言う人が、もう9割9分なんですね。(日経エレクトロニクス8月11日号)
 こうなってしまえば、相手の抵抗を予想して、自分の意見を通す事を遠慮してしまう。そのため、あきらめてしまうのである。

 また、暴動を起こすには、困窮者同士のコミュニケーションが必要である。ところが、日本にはコミュニケーションそのものがない可能性がある。僕は、「現代日本人の精神の貧困「三ない主義」として、「対話がない」「考えない」「希望がない」の3つがないため、孤立していることについて書いている。好況のときは、それでも社会は動いていた。ところが、不況になり、会社や家族から放り出されたとき、初めて人々が孤立していることに気がつき始めたのだ。かつて、日本は、地域・会社・血縁など縁によるコミュニケーション社会であった。ところが、現代では、その縁が機能していない。

板垣 「縁」の意味としては、二つあると思うんです。ひとつは安心感という心のつながり。もう一つは、たとえば介護が必要なときにシグナルが出せて、なんらかのサービスに引っかかるという社会の救済システムです。

 このうち、公的なシステムは完全に欠落しています。本来、公が担うべき社会保障のシステムを、これまでは家族や企業などに一部を負わせてきた面がある。ところがここにきて、その仕組みから排除されている人がどんどん出現してきて、救済システムの手直しが追いついていない

 一方、ネット上で反響があったことで、新しい技術が心を結び付ける役割を果たしているとわかり、ホッとした面はあります。ただ、ネットで心のつながり感を得ることはできても、実際になにかあったときに物理的なつながりにはなれない。今後、うまく解決策として提示できればいいのですが。(週刊ダイヤモンド4月3日号 NHKスペシャル無縁社会」制作者座談会)( 無縁社会と三ない主義)

ネット・コミュニケーションとリアル・コミュニケーション

 もちろん、インターネットはコミュニケーションの道具である。だが、この道具は、使う人間により、都合のよいことだけ聞いて、都合の悪い事を聞かないために、本当のコミュニケーションになりえないのだ。僕は映画「おとうと」を使ってコミュニケーション論を展開した。
 山田監督は、家族も地域も対等に話し合える知性的に結ばれた間柄が必要だという。現代人の典型として、小春の元夫の話が出てくる。彼は、大学の医師でありエリートでもある。仕事が忙しく、会話もメールを通してしかできない。山田監督はこういう。

——対話ができる人たちは、ぶつかりながらも円滑に生き、対話できない関係はダメになってしまいます。小春の元夫の「向き合って何の話をするんですか」という台詞が象徴的でした。

 あれはイプセンの「人形の家」のなかの有名な台詞なんです。「何を話し合えと言うんだ」「ちゃんと向き合って、真面目な事を真面目に話したい」というのはノラの台詞。小春と結婚した医者の卵にはまったく理解できないことで、夫婦の間には真面目な問題なんてないのではないかと思っている。彼は生活者としての知的レベルはかなり低いと思うんですよ。夫婦に話し合うことなんて必要ないと思ってるんだから。そうじゃないんですよ、夫婦だからこそ、きちんと真面目に話し合わなきゃいけないということは19世紀のイプセンがすでに語っていることでね。(「おとうと」パンフレットより)( 映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション)

 もし、このようなリアル・コミュニケーションが成り立っていないと、ネットは返って、社会への不満を増幅させ、自殺や犯罪の原因を作ってしまう。まず、彼らを孤立させないことが必要なのである。
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