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素人だから言えることもある

iPadが引き起こすジャーナリズム革命(ホームサーバの戦い・第66章)

iPadは入れ物の一つに過ぎない

 僕は、「なぜ、iPadは革命的か(ホームサーバの戦い・第56章)」の中で、
コンピュータに慣れた人しかアクセスできないものがそうでない人もアクセスできるようになる」(NHK「爆笑問題ニッポンの教養」file:107「現実ヲ拡張セヨ」苗村健准教授)
の言葉をとりあげた。これは、インターネットを利用するにはパソコンを持たなければ使えなかったことが、パソコンを持てない人でも使えるようになった事を意味している。だが、これでは、テレビのようなコンテンツデバイスがもう一つ増えただけである。革命的になるには、もう一段、深める必要がある。

マスメディアの意味が変わる

 マスメディアは、新聞・テレビ・出版社などである。これらのメディアは、巨大な印刷輪転機や販売店、放送網など、金のかかるインフラを持っている。クリエイターたちは、これらのインフラを持つマスメディアの協力なしでは、表現することができなかった。読者と作者の中間にマスメディアが立ってこそ成り立っているのである。

 今まで、読者たちは、マスメディアと言うブランドに頼ることで、仕方なく自分たちの意見を代弁してきた部分がある。しかし、iPadによってそのブランドの意味が変わりつつある。たとえば、アメリカの新聞社の新聞事情を書いた「新聞消滅大国アメリカ」の書評によると

 NYタイムズのように、老舗で、すべてのニュースソースをカバーせざるを得ないような大規模新聞社は、大量の記者・専門家を内部に抱えざるをえません。それゆえ、経営に対する固定費の割合が高いことが予想されます。そして、収入に占める広告費の割合が減少する中で、この固定費を支えられなくなっている
 逆に、現在の広告収入に適応可能な人数まで削減することができれば、経営は成立する。しかし、それは、すべてのニュースソースをカバーすることを放棄することを意味する、ということではないか、と思います。NYタイムズのような老舗新聞社は、このようなダブルバインド状況に煩悶しているのではないでしょうか。
 一方、地域に根をおろして、小規模な人数で草の根の活動をしている新聞社は、そもそも固定費が低いだけでなく、広告費の減少の影響が経営を直撃する程度は低い。よって、小さな新聞社につとめる記者ほど、危機感は少ない、ということではないか、と推察します。もちろん、そのような新聞社とて、危機から無縁というわけではないでしょうけれども。(米国新聞社の危機で生まれかねない政治的無関心・政治腐敗・地域コミュニティの対話減少:鈴木伸元氏著「新聞消滅大国アメリカ」書評)
一方、日本の新聞社の事情は違う。
 ひとつは、日本の新聞社は取材から印刷まで、高度に垂直統合された生産システムを保有していること。これは、紙からネットに移行する際に、「変革」を阻害する最大要因になるのではないか、と推測します。
 もうひとつは、宅配を支えている、地域の販売店は、「折り込み広告」によってビジネスを維持しています。この折り込み広告が減少すれば、「地域の販売店」が先に倒れていきます。そして、この販売店ネットワークが崩壊すれば、「宅配」によって支えられている新聞社のビジネスモデルが危機に直面するのではないか、と推測します。(米国新聞社の危機で生まれかねない政治的無関心・政治腐敗・地域コミュニティの対話減少:鈴木伸元氏著「新聞消滅大国アメリカ」書評)
ITジャーナリストの佐々木俊尚氏は、「マスメディア崩壊という共同幻想」の中で、
 もともとマスメディアなどというのは、しょせんは幻想の共同体にすぎなかった。しかしその幻想をマスメディア自身が構築し、国民にその幻想を放射することによって、マスメディア企業はマスメディアとして巨大化していった。それがこの戦後65年間の間に起きてきたことだ

(中略)

 だがこれは過渡期でしかない。間もなく新聞もテレビも総合週刊誌もみずからの崩壊を語り、論じなければならない時期がやってくる。それが記事の体裁をとるのか社告や識者座談会のような形式になるのかはまだわからないが、いずれにしてもそれはビッグバンからビッグクランチへと転じるマスメディア幻想の最後の号砲となるはずだ。(マスメディア崩壊という共同幻想)

 ただ、気をつけなければいけないのは、ニュースを総合的に見渡すメディアが必要なくなるわけではないということだ。広告に頼りきったマスメディアでは、この巨体を支えきれなくなったというにすぎない。総合百貨店が専門店に移行し、総合雑誌が廃れ、マニアックな雑誌のみに変わっていけば、人々の興味はますます近視眼的になり、スピードはますます速くなるが、自分の周りしか関心がない人間がどんどん増えていく社会になりかねない。

 僕は、それを避けるために、新しいジャーナリズム革命を提案する。

日本になかったジャーナリズム革命

 僕は「耕す文化」と「種まき文化」(異文化文献録) で、
 「日本人は、いつも思想は外からくるものだと思っている」 ( 司馬遼太郎「 この国のかたち 」文芸春秋社 ) 。この「思想」を「文化」に換えても納得がいく。「独創的な文明は、日本よりも外国で作られる可能性が大きいから、それを取り入れる方が能率的だ。中国に儒教があれば儒教をもってくる。インドに仏教があればそれをもってくる。ヨーロッパに科学技術があればそれを持ってくる。これが一番よいやり方だと考えた」 ( 梅原猛「 日本文化論 」講談社学術文庫
と書いている。この思想や文化を革命と言い換えてもいいかもしれない。日本の革命は、必ず上から(明治)外から(アメリカ占領)によって行われ、決して民衆の中から行われたことはなかった。そのため、民主主義はアメリカからもたらされたものであり、日本のジャーナリズムも民衆が勝ち取ったものではなく、政治にとって民衆統治のために都合よくできている。

 「日本にジャーナリズムが育たない理由」で、考えたのは、日本のマスメディアは結局、政治にとって都合のよい制度、例えばテレビには政府から下される放送権があり、新聞社には新聞特殊指定がある。この新聞社とテレビ局の系列化により、お互いを監視することができない。マスメディア自身がマスメディア批判をできないというのは、かなりおかしいのではないか。

 今回の、iPadによるジャーナリズム革命の萌芽は、新たな民衆によるジャーナリズム革命のきっかけになるかもしれない。もちろん、一時は、アップルやアマゾンがニュースを選別する時期が来るだろう。だが、結局、興味本位のニュースではすぐに飽きられることになろう。それはメーカー主体では、ジャーナリズムが構築できないからだ。そして、日本で今まで達成できなかった「民衆による本当のジャーナリズム」を構築できるチャンスが来るかもしれない。
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