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素人だから言えることもある

ジャーナリズムの試練

相撲界とマスメディア、なぜか似ている官僚組織

ついに、NHKが名古屋場所の相撲中継を中止した。そもそもの発端はなにか。
2010年5月20日、大相撲五月場所が開催されている最中に発売された週刊新潮(5月27日号)で、琴光喜が暴力団を胴元とするプロ野球を対象とした野球賭博に関与していたと報じられる。記事では阿武松部屋床山、床池の誘いを受け賭博に参加したとされ、また床山の兄の元幕下力士に1億円の口止め料を払うように恐喝されているとも掲載される。またこの記事では琴光喜とは別の阿武松部屋の力士の関与も取りざたされている。相撲協会琴光喜の師匠である佐渡ヶ嶽親方や阿武松親方などからも事情を聴取するが、両名とも弟子の関与を否定している]。琴光喜は当初これらを否定しており、五月場所14日目の5月22日に警視庁は琴光喜から任意で事情聴取をするが、警察に対しても関与については否定していた。(大相撲野球賭博問題-Wikipedia)
週刊新潮の記事が発端だった。しかし、その後の展開を見ると、暴力団と相撲界との関係は根深く、何十年もわたっていることが報道された。それなら、なぜ、それ以前に新聞報道によって明らかにされなかったのか。ジャーナリストの上杉隆氏の「週刊上杉隆」では、
 なにより、「相撲記者会」所属の記者たちが、この問題をいま初めて気づいたかのように振舞っていることに驚かされる。
 大相撲記者クラブの記者たちは、4月、「週刊新潮」がこの問題を報じるまで、本当に何も知らなかったのだろうか。
 記者クラブという組織を結成し、他者を排除し、四六時中力士たちと会話し、「業界人」として行動をともにし、深く親交を結んできた「相撲記者」たちが、本当に何も知らなかったのか。私にはそのことこそが信じられない。
 仮に、本当に知らなかったとしたら、相撲記者たちというのは、よほど愚鈍な連中の集まりだと断言できよう。そうした愚鈍な連中の記事をもっともらしく載せたり報じたりしていたとしたら、新聞もテレビも同じように罪である。
 逆に、知っていて報じなかったとしたらどうだろうか。犯罪行為を見過ごしたということになれば、法的にも「共犯関係」に当たるかもしれない。記者自身も相撲記者としてはアウトの可能性が出てくるのでないか。
 日本では、これまでも記者クラブ制度の存在によって、こうした事実が明らかにならなかったことは多々あった。
 それは大相撲に限らない。すべてのスポーツ、あるいはまた政治、行政、芸能、メディア、あらゆる業界でこうした「記者クラブ」のカルテルの壁によって、不正の隠蔽が行われてきたのだ。(自らの賄賂疑惑に沈黙するマスコミに、大相撲賭博を糾弾する資格はあるか)
 いまさらながらである。この後、上杉氏は、主目的の官僚機密費問題に続くのだが、それについては触れない。ただ、僕は、マスメディアこそ、官僚組織に似ている事を論じたことがある。マスコミと官僚、そして日本社会で、
会社組織だから、上司の指示に従うのは当然という側面もありますが、そこに議論がない。議論する前に、自己規制してしまっている。そういう例が実に多いのではないかと推察します。要は、新聞社やテレビ局の組織が官僚組織に似た存在になってしまったのではないか。
自分で判断しない・できない、責任も取らない・取ろうとしない。上司の顔色をうかがう、組織内の評価ばかり気にする、だから仕事は過去の例に即して進める
。(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」野良舎)

 この言葉は、そのままピーター・F・ドラッカーの次の言葉に直結する。


 官僚は手続きによって仕事を続けている。人の常として、何が正しいかよりも、何が自らの省庁にとって利益かを重視し、何が成果をもたらすかよりも何が行政上都合がよいかを重視する。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)( マスコミと官僚、そして日本社会)

 上杉氏としては、「記者クラブ問題」に収斂していくように思っているようだが、僕は、もっと根本的な問題なのではないか。そもそも日本には、ジャーナリズムと言う名前だけの似て非なる官僚組織がそこにあるのではないか。

ジャーナリズムの使命とは何か

 MSNの質問箱にこんな質問と答えがあった。
質問 マスメディア、ジャーナリストの使命はなんでしょうか。

答え 奈良産業大学情報学部教授 亘 英太郎(わたり えいたろう)著『ジャーナリズム「現」論』で私が気に入って抜粋した部分を紹介いたします。

(中略)

「ウォッチ・ドッグ」
 チェック機能は、ジャーナリズムの生命である。欧米では象徴的にウォッチ・ドッグ(watchdog番犬)と表現されるこの監視・チェック機能こそ、メディアが健全な社会を作り維持するためにもっとも期待されている役割だ。メディアの存在理由であり基盤である。これを忘れてメディアが権力と癒着したり、メディア自身のモラルを低下させてセンセーショナリズムに走ったりすることは許されない。

 多くの著名なジャーナリストやメディア研究者がチェック機能の重要性を繰り返し語ってきた。メディアやジャーナリストを、ある集団の「歩哨」や航海中の船の艦橋に立つ「見張り番」にたとえ、警戒すべき変化や危険の兆候をいち早く見つけて大声で叫ぶことの大切さが説明されている。歩哨や見張り番は、人々が寝ている間も懸命に監視を続け、自分を信頼してくれる人々の安全のために働くわけだ。まさにメディアの「監視機能」もそのような働きである。

 社会の隅々に目を光らせ、社会の健全な発展を阻害するような変化や危険を見つけると大声で社会に知らせ、警戒を呼びかける。監視の対象は国や権力に限らない。巨大組織や大企業など、国民の生活と生命に大きな影響力を持つ機構、人物すべてが対象になる。もちろん、いまや大変な影響力を持つに至ったメディアも対象になる。監視するだけでなく、不正義を広く社会に告発・公表する役割も含まれている。

 通常、権力や大組織の不正、腐敗といったことは、隠されている。従って、メディアは単に監視するだけでなく、これらの悪事を探り出し、発掘する必要がある。発掘には大変な困難が伴うが、懸命の努力で不公正を掘り出して公表し、権力や大組織の姿勢を改めさせるのがメディアの仕事と考えるべきだ。そのような業績の特に優れたものに、毎年、ピュリッツァー賞や日本新聞協会賞といったメディア界の最高栄誉が授与される。これらの賞は、単にスクープをほめ称えるのではなく、その報道が民主主義を守り、われわれの社会の腐敗を防ぐのに貢献したことをほめ称えているのである。

 「社会と民主主義を守るのが自分たちの仕事であり、責任である」との確信を、すべてのメディア、ジャーナリストに持ってほしい。(MSN質問箱)

 日本には、新聞・テレビ・週刊誌とマスメディアの種類は多い。だが、本当にそれは「ウォッチ・ドッグ」として機能しているのか。「日本にジャーナリズムが育たない理由」でわかったのは、見事なまでの政治とマスメディアとの連結システムであった。

 政治―(放送権) ―テレビ局―(系列化) ―新聞社―(広告代理店) ―企業

 ワイドショーで連日、政治批判をしているが、結局のところ、表層の事件だけ取り扱っているだけである。系列化のために、新聞はテレビを批判できないし、テレビは新聞を批判できない。ましてや、民放はスポンサーである企業を批判できない。また、バラエティーを見ても、政治を批判するコメディアンはいつの間にか消えている。どこにも「ウォッチ・ドッグ」はいない。

日本は民衆の間から革命を起こしたことはない

 時代劇「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」。これらは再放送するたびに高視聴率を上げる。しかし、特徴的なのは主人公がいずれもが庶民(民衆)の代表ではなくて、お上であることだ。考えてもみたまえ。明治にしても終戦にしても、日本が大変革をするときはいつもお上が変わるときである事を。したがって、マスメディアは民衆側に立っているように見えているが、結局、政治に直結する官僚組織の一員なのだ。

 インターネットは、物言わぬ民衆に発言するチャンスを与えてくれた。これは、民衆の中から革命できる最後のチャンスかもしれない。今まで、強固なシステムで触れることすらできなかったマスメディアを変えることができるのではないか。

 前項朝日新聞は、今、何を考えているか・2(ホームサーバの戦い・第68章) では、朝日新聞側の考え方を探った。もう一度、週刊東洋経済で見てみよう。

 朝日新聞はデジタル強化を鮮明に打ち出している。

 「当社の戦略は『紙からデジタルへ』ではなく、『紙もデジタルも』というものだ」と、経営企画担当の和気靖取締役は言う。「二項対立ではとらえていない。『既存のビジネスの維持強化』と『新しいビジネスの創出』という二正面作戦を進めていきたい」。

 4月以降のデジタル関連の新事業をトレースするだけでも、盛りだくさんだ。4月20日にはウェブ新書を有料で販売する「エースタンド」を開始。自社コンテンツだけでなく、講談社、文藝春秋、小学館などの大手出版社のコンテンツも預かっている。6月末までは創刊記念価格として一律105円で販売している。

 5月27日にはソニー、KDDI凸版印刷とともに、電子書籍配信事業を行うことを発表。さらに、ソフトバンクの「ビューン」へは『AERA』と『週刊朝日』が参加する。6月24日には言論サイト「ウェブロンザ」を開設。有料コーナー「ウェブロンザ・プラス」もあり、7月1日から月額735円の課金を行う。

 まさに、「矢継ぎ早」という言葉がピタリと来る。朝日新聞は今、有料のデジタル新事業を、さまざまな角度からスタートさせている。

 自社単独でなく、他業界の企業と組んで行う新事業が多い点も、朝日新聞の特徴だ。「新事業への展開では自前主義に陥らないようにしている。当社のコアコンピタンスである取材力、編集力と、それに裏打ちされたブランド力を評価してくれる企業と積極的に組んでいく。他社と組むことにより1社では負えないリスクをマネージすることもできる」(和気取締役)


 朝日新聞の10年3月期は2期連続の赤字決算に沈んだ。新事業はすぐに売り上げ、利益に結び付くものではないため、希望退職募集による人員体制スリム化など、血を流す構造改革の完遂が黒字化のカギを握る。(週刊東洋経済7月3日特大号「激烈!メディア覇権戦争」)

 有料コーナー「ウェブロンザ・プラス」と希望退職募集については、佐々木氏のTweet
社外筆者に1本1万円で書かせるいっぽうで、早期退職者には7000万円とかの退職金を払ってるんだよね。(http://twitter.com/sasakitoshinao/status/16925809219)
と、朝日新聞は、今、何を考えているか(ホームサーバの戦い・第67章) で紹介した。そして、前項のエントリーに対する佐々木氏のTweet
高コスト体質を変えない限り、旧メディアのネットビジネスは絶対に成功しない。でもだからといってコンテンツの外注金額を極限にまで下げるのは方向が間違ってると思うhttp://bit.ly/b5a39r
(http://twitter.com/sasakitoshinao/status/17762795157)
がひとつの答えとなっている。

 朝日新聞の体質としては、コンテンツのクリエイターは、契約社員として捉えているのかもしれない。しかし、出版社なら、もう少し、クリエイターを大事にするのではないか。自分たちの組織を大事にする事を主眼にするあまり、「ウォッチ・ドッグ」の意向が感じられないはなはだ官僚的な改革といわざるを得ない。

 佐々木俊尚氏はまぐまぐのインタビューでこう答えている。

僕はこれから先の時代は、マスメディアも大企業もない世界になっていくんじゃないかとイメージしています。そういう状況では当然ながら個人のビジネスもスモール化していくでしょう。
そこで大事になってくるのは、おのおのがいかにセルフブランディングをきちんとし、なおかつ身体を鍛え、小さなビジネスを維持していくスキルを構築していくことではないでしょうか
。つまりは、自分自身の人生に自分自身で責任を負うような世の中になっていくんじゃないかと思うんです。(まぐスベインタビュー)
 日本のゆがんだジャーナリズムを改革する試練のときが来たのである。
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