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素人だから言えることもある

モノになりかかった人への処方箋

忙しくて孤立する都市の構造

「希望がない」「対話がない」「考えない」というのが現代日本人の特徴だ。仕事が忙しくて家族との対話がなく、対話するのも同じ会社の仲間だけ。一生懸命考えているのだが、結局、自分の周りのことだけで、将来や全体を展望して考えない。漠然とした不安があり、希望を見出すこともできない。いわば、「フラット化する世界」のサミュエルソンの言葉、
「われわれはいまも自転車競争の先頭を走っていて、あとをついてくる選手の空気抵抗を減らしてやっているが、その差は縮まっている。最先端の国というアメリカの立場は、どんどん危なっかしくなっている。なぜかというと、蓄えがきわめて乏しい社会になってしまったからだ。すべて自分、自分、自分、そして今―他人や明日のことは、まったく考えない」(トーマス・フリードマン著/伏見威蕃訳「フラット化する世界」日本経済新聞社)
他人のことなど考えられないというのが現状なのだろう。だが、そのことが人間をモノ化しているのだ。派遣制度などは、典型的な部品補充制度である。必要な社員は正社員として抱え込み、足らない部分を補充する。相手を人間として考えていては、とてもやっていられない。正社員は、派遣社員を見るたびに『明日はわが身』と考えて頑張っているのでなく、あの程度でいいんならと派遣社員に合わせて職能が落ちていく。アウトソーシングについては、マスコミの分野では、「マスメディアは人から腐る」で
アウトソーシングで、親会社は数字の上では経費削減に成功し、大きな利益を上げることができた。それは会社の株価に反映し、経営者の評価は高くなる。もしかしたら、生産会社ならそれでいいのかもしれない。しかし、少なくとも報道、言論に携わる組織に、最も必要なのはジャーナリストの人材である。人材を育てるうえで、アウトソーシングはとても妥当なやり方とは思えない
それまでのプロデューサー・システムが、アウトソーシングへの移行を容易にした要因であったが、結果としてアウトソーシングは、大量の「ジャーナリストもどき」を生み出すことになった。プロセスが複雑になった分、「ジャーナリスト」に属するものが激増したからである。(小出五郎著「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」水曜社)
と述べたが、これはIT技術者でも同様だ。IT proで松原友夫氏は、
日本のソフトウエア開発の産業構造には、決定的な欠陥がある。ソフトウエア技術者の派遣ビジネスである。  
大規模な開発プロジェクトの場合、ソフトウエア開発の仕事は、ほぼ例外なく複数の会社に分割発注される。ところがソフトウエアシステムをサブシステムに分割して請け負わせるケースは少なく、多くの場合、「一カ月いくら」で契約する派遣プログラマーを雇い、プロジェクトチームに組み込む。派遣会社の間で技術者を貸し借りするので、技術者が多層化する。いわゆる多重下請け構造である。発注者でさえ、実際の階層数や末端の会社名を知らない。 (「日本のソフトウエア産業、衰退の真因」)(日本文化、衰退の危機)
と語っている。ともかく、人間を育てるにためには、アウトソーシングは向いていないということがいえる。今回のエントリーでは、怪談「都市八分」・人間がモノに変化したの解決編として、モノになりかかった人のための処方箋を考えていこう。

友人・ウィークタイズを増やす

僕は、現代日本人の精神の貧困「三ない主義」で、いくつか処方箋を書いた。特に、友人の多い人ほど希望が増える傾向があるという。
希望があると語る人には、自分には友達が多いという認識を強く持っている場合が多い。友達が少ないと答えた人に比べると、友達が多いと答える人は、希望があると答える確率がおよそ3割高くなっていた。友人という自分にとっての身近な社会の存在が、希望の自負に影響をしている。友達が少ないと自己認識している人は、希望も持ちにくいのだ。
友達の存在はどのようなプロセスで希望に影響を与えるのだろうか。その詳細な道すじは、今のところ、まだわからない。ただ、友達という自分にとっての他者の存在が、希望を発見するための重要な情報源になっている可能性は高い。なかでも社会学者のグラノヴェクーが「ウィークタイズ」と表現したような自分と違う世界に生き、自分と違う価値観や経験を持っている友だちからは、自分の頭で考えるだけで得られなかった様々な多くの情報が得られたりするものだ(『転職』1998年)。(玄田有史編著「希望学」中公新書ラクレ)( 貧困と孤立、そしてウィークタイズ)
このウィークタイズは、緩めたネクタイと言う意味で、仕事上の友人や家族関係ではない。親戚の集まりとか、趣味の集まり、宗教や地域の集まりでも良い。年齢や性別もバラバラな違った価値観から人生のヒントを与えられるのである。もちろん、メールのやりとりではなく、直接会って対等に話し合う関係が必要である。

親子の時間を増やす

僕は、「亀井さん、文句を言う相手、間違っていませんか? 」でこう書いている。鳩山首相、亀井金融担当大臣の頃だ。
亀井大臣は、大企業の経営者に責任があるように思われているようですが、責任は彼らだけにあるのではないのです。私たち、父親・母親世代が、「家族の時間」を削り、仕事中毒になったためです。生活時間の優先順位を仕事第一になったことに責任があるのです。本来、私たち親世代は、家族時間の重要さに気づき、会社に対して、要求すべきことを怠ってきました。亀井大臣は、鳩山首相に全国民にこう語りかけるよう、このように進言してください。
全国の父親・母親の皆さん、仕事を定時に切り上げて、帰宅し、テレビを止めて子供の悩みや不満を聞いてあげてください。経営者の皆様もご協力お願いします。悩みが解決できなくても、聞いてあげるだけでも結構です
毎日、これを続けることで、家族の時間が定着していきます。子供手当ての生活支援も必要ですが、子供と親との会話を復活させれば、事件の何割かは起こらなくなります。もちろん、忙しくて時間が取れないこともあるでしょう。しかし、まず、「家族の時間」を増やすことに頭を切り替えるべきです。(亀井さん、文句を言う相手、間違っていませんか? )
それに対して、こんな反響があった。
それで生活が成り立つなら誰も苦労しないよ。低賃金長時間労働で夫婦共働きじゃないと生活できない家庭にそれを言うのは無配慮、無責任が過ぎる。(noha’s mark)
僕は、次の「助けて」と言えない理由でこう答えている。
もちろん、現実問題、できない夫婦もあるだろう。だが、その夫婦の子はどうなるのか。少なくとも、人間的なつながりの温かさを知らない子は、結局孤立の連鎖から抜けられない。つまり、緊急時に「助けてと言えない」子供を新たに作ってしまうかもしれないのだ。親子が互いに信頼できる関係になれば、孤立に閉じこもるより、他人に救いを求める勇気もできる。せめて、家族内だけでも、「家族の時間」を築いていく方向で考えてもらいたいのである。(「助けて」と言えない理由)
そして、こんなコメントが。
若干状況が異なると思いますが、この記事を思い出しました。
教育ママと働きママ
http://japan.cnet.com/blog/tomohiro/2009/02/21/entry_27020549/
働く事が「身勝手」であるという切り口が似てるかなと…。
確かに、仕事って家庭や地域社会の煩わしさから逃れられる格好の言い訳なんですよね。
自戒したいと思います。(朴念仁)
このブログはCnetリニューアルで消えたのだが、幸い、翼のアーカイブ「教育ママと働きママ」として残っていた。このコメントに対して、僕は、こう答えている。
朴念仁さん、コメントありがとうございます。教育ママと働きママの両立ですか。でも、それで体を壊したら元も子もない。要するに優先順位なんです。もちろん、働かなければ収入がない。収入がなければ、子供を育てられない。だから、子供を孤立させてもいいのか。子供を不幸にさせてまで働かなければならないのでは、世の中の方が間違っている。わざわざ、鳩山首相を登場させたのは、国民にその優先順位を思い出してもらいたいからです。人生は働くためだけにあるのではない。子供を立派に育てるのも「家族時間」が必要なんです。欧米各国が、バカンスなど、家族のための時間をきっちり取っている。ところが、日本では休まないことが素晴らしいという。これじゃ、経済的に成功しても、日本に未来はありません。未来を担う子供たちが育たないからです。
親子の時間が取れずに、母親になってしまった彼女に果たして、母親としての責任を取らすことができるのか。もし、大量にこのような母親が登場してしまったら、日本は崩壊してしまうかもしれない。僕は、その次のエントリー「家族の期待は、子供の人生を変える」でドロシー・ロー・ノルトの詩の「子は親の鏡」を紹介している。
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる(ドロシー・ロー・ノルト/レイチャル・ハリス著/石井千春訳「子どもが育つ魔法の言葉」PHP)

結局、人間がモノになるかどうかは生身の人間関係次第である。
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