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素人だから言えることもある

インプットとアウトプット

 僕のブログに対して、こんなツィートがあった。



ちょっと興味深いブログ。 http://mugendai.bloggers-network283.com/ 何がというと「メディアの報道だけを見てメディアを批判する」という、一見科学的実は疑似科学的な文章が並んでいるんだな。他山の石。(http://twitter.com/varcolac/status/23984888409)



 僕のブログのどこが一見科学的実は疑似科学的な文章であるかは知らない。「他山の石」と言うことわざを調べてみると、



意 味:自分の向上に役立てることのできる他人の言行や失敗のこと。
読 み:たざんのいし
解 説:よその山から出た石でも、自分の石を磨くのに役立つということから転じたことわざ。
出 典:『詩経
英 語:The fault of another is a good teacher.
類義語:人のふり見て我がふり直せ/人を以て鑑となす/他山の石、以て玉を攻くべし
(他山の石(たざんのいし):ことわざデータバンク)



とある。他人の資料でも、自分を磨くのに役立つということか。


 一見科学的の言葉は、「メディアの報道だけを見てメディアを批判する」にかかっているように見える。しかし、実は疑似科学的な文章の言葉はそうでない事を示している。普通のブログだったら、おそらく「メディアの報道」の資料を引用して、長々と自分の文章で批判するだろう。だが、僕のブログはそういう形を取らない。批判の部分も、また別の資料だからだ。僕の地の文章は、ひたすら資料をつなぐことに費やされる。結論も比較的短い。おそらく、そこが疑似科学的な文章ということなのだろう。


 しかし、科学的文章とはいったいどういう意味なのだろう。批判するにしても、全体の文章を科学的に批判することなどできない。どうしたって、自分の都合のよいところだけを取り出して引用せざるを得ない。資料を使おうと、使うまいとどのように書いても疑似科学的な文章になってしまうではないか。まあ、それはともかく、「興味深いブログ」という点で、褒めていただいたと好意的に受け取ろう。


 ともかく、僕のような無名のブロガーでは、なかなかブログを読んでもらえないだろうと思っていた。また、それほど知識がない自分では、たちまちアウトプットが間に合わないのも事実である。そこで、インプットをそのままアウトプットする、ある意味、文章としては未消化状態ではあるが、その思考過程をブログとして残していくのはどうだろうかと思ったのだ。未消化なアウトプットでも、少なくともインプットした文章は、資料として編纂されて完成している。そうなると、それが新たなデータベースとして、次のブログとして生きてくるし、新たな疑問が生まれれば、また別の資料からインプットする。このように考えていけば、インプットした資料も生きれば、思考過程もさらに幅広くなる。もし、僕自身の文章でつないでいったら、これほど続かなかったし、結局同じ思考を繰り返していたに違いない。これこそ他山の石の自分の向上に役立てることのできる他人の言行や失敗のことなのではないか。


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