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素人だから言えることもある

官僚も人から腐る

「郵便不正事件」から


 このエントリーは、「マスメディアは人から腐る」の続編である。「郵便不正事件」が結審した。官僚である検察が、官僚である厚労省幹部を裁く珍しい裁判である。そもそも「郵便不正事件」とは、



 障害者団体が発行する定期刊行物を支援者らに送る際、月3回以上発行などの条件を満たせば1通8円(正規料金120円)で郵送できる割引郵便制度を悪用し、定期刊行物を装った企業広告が格安で大量発送された事件が発端。制度の適用を受ける際に必要な厚生労働省の証明書の偽造にかかわったとして、虚偽有印公文書作成・同行使罪で村木厚子元局長と元係長の上村勉被告、障害者団体「凛の会」幹部2人の計4人が昨年7月、起訴された。(【用語解説】郵便不正事件MSN産経ニュース9/10)



 判決を見ると



 判決で、横田裁判長は供述調書について「人間の供述は認識、記憶、表現の3段階で誤りが混入する可能性がある」と述べ、検察側が証拠の柱とした供述調書について「相互に符合しても、その他の客観的証拠に符合しなければ信用性を高めるものにはならない」と指摘。調書に頼った捜査への警鐘を鳴らした。(【郵便不正】村木元局長に無罪判決 検察側構図をことごとく否定/MSN産経ニュース9/10)



と述べている。供述調書は裏づけのない検察側の作文だというのである。


 最初にシナリオありきの姿勢で事実を追求していくと、真実が見えてこなくなる。「きっとこれには局長が関与しているはずだ」「国会議員が関与すればより面白くなる」。検察側にとって単なる小物の事件でより、大物や国会議員が絡んだ事件の方が注目度が高い。こうして、サスペンスドラマを作るようにシナリオを作っていく。作文を書いた人間と取調べをした人間の間に上下関係があり、取調べ側の疑問のフィードバックがなされていないのではないか。真実を追求するシステムがなく、官僚主義の上意下達のみが生きているように思われる。


 この作文を作る側と取調べ側の乖離は、ディレクターのアウトソーシングに似ている。「マスメディアは人から腐る」で、



 視聴者の耳目を集める企画をディレクターは提案したい。企画は前に書いたように仮説である。取材という検証を通じて初めて番組にすることができる。いわば番組に育てる前の芽のようなものだ。その前提が崩れた。


 仮説の検証の第一は、まず現場に行くことである。関係者の話を直接に取材しなければ何事も始まらないはずである。ところが、仮説を立てるものと検証する者が別々になってしまった
 その結果、例えば、次のような過程で番組ができてしまう。


 はっきり言って、仮説を立てるだけなら現場に行くまでもない。インターネットで十分である。パソコンと向かい合ってネットサーフィンを繰り返す。おもしろそうな事柄が見つかったらコピー、ペースト、プリントアウトが溜まったら、それで仮説を書く。採択になるような文言をちりばめ企画書を書いて、提案する。大体企画を書く段階では、毎日の業務に追われて時間がないし、予算は付いていないし、現場に行って詳しく取材できない。それが口実になる。


 提案が採択になったら、下請けを選んで発注する。発注元は企画を仮説だとは言わない。仮設を定説のように示しがちだ。取材してみれば、仮説がまっとうだということが判明することもあるが、反対にとんでもないインチキと分かることもある。発注元はそれをしていない


 実際取材する下請けの担当者はどうか。発注と下請けという力関係にアンバランスがあり、しかも仮設を定説としてこだわる発注元がいると、仮説が間違いと分かっても指摘しにくい。逆らって顔をつぶすことになっては、次の仕事に支障が出る。取材してみて間違いを発見するだけの能力と気持ちがあればまだいい。発注元に命じられたことを命じられたとおりに仕上げて「一丁あがり」にするほうが、波風が立たずに平和的に収まる。(小出五郎著「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」水曜社)



このディレクターを作文を書いた検事に、下請けを取調べした検事に、番組を裁判に置き換えれば「一丁あがり」となる。


なぜ、官僚はマスコミと似ているか


 それは、官僚もマスコミも組織で動き、まず個人名が明らかにされない点だ。そうなると、本人の努力はすべて組織内部に向けられる。例えば、「ブログ・ジャーナリズムは誕生するか」で、



 日本のメディアの病気のうち、一番の問題は、この「当局に弱い」「権力に弱い」という部分だと思います。その反対に、弱い者には非常に強く出る。弱い者、弱りかけているものは、それこそ容赦なく叩く。犬は溺れさすことはしないけれど、溺れた犬はいっぱい叩くわけです。私は逆だろうと思うのです。溺れた犬をどうするかは、日本の法律に従って粛々と当局がやればいいわけで、そういう意味ではメディアは強きに弱く、弱きをくじいてますね。


(中略)


 そして、これが一番重要なのですが、何をどう報道するかという肝心な問題を突き詰める前に、「デスクは許してくれないだろうな」とか、「会社の編集部はどう評価するだろうな」とか、目が社内を向いてしまっている。会社組織だから、上司の指示に従うのは当然という側面もありますが、そこに議論がない。議論する前に、自己規制してしまっている。そういう例が実に多いのではないかと推察します。要は、新聞社やテレビ局の組織が官僚組織に似た存在になってしまったのではないか。


 自分で判断しない・できない、責任も取らない・取ろうとしない。上司の顔色をうかがう、組織内の評価ばかり気にする、だから仕事は過去の例に即して進める…こうやって言葉にすると、みもフタもないですが、それが取材現場の実感ではないでしょうか。(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」野良舎)



 本来、検察もマスコミも「真実を追求する」と言う点では同じ精神を持っているはずだ。ところが、この精神は組織に宿らず、個人に宿る。組織のために真実を曲げてもいいという人間が増えてきたのは、「真実を追求する」と言う精神を持つ個人が確実に減っている事を意味している。まさに、官僚もマスコミも人から腐ってきたのである


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