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素人だから言えることもある

ジャック・バウアー的アメリカ正義論

ジャック・バウアーの正義

私たちは、さまざまなルールに縛られている。人を殺してはいけないという刑法的ルールから、道路でつばを吐いてはいけないという社会道徳的ルールまで。一方、警察や検察のように、犯人を取り締まるために武器の携帯などの一部のルールが免除されている職業がある。当然ながら、それらの職業は正義を遂行するという任務を国民より期待されているためであり、私的な行使は禁じられている。今回の特捜検察庁の事件は、その点で違法性が問われている。

ところで、この漠然としたルール、どこまで許されるのだろう。現在、フジテレビの深夜に「24」というアメリカ産のドラマが再放送されている。主人公ジャック・バウアーはこんな人物である。

正義感と忠誠心に厚い、アメリカ合衆国の真の愛国者。どのような過酷な任務でも最終的には達成することから、パーマー大統領などからは絶大な信頼を寄せられている。徹底した現場主義であり、任務遂行のためならルールを破ることもいとわないため、たびたびCTUの上級スタッフと問題になることが多い。問題行動が多いものの結果的には、現場において最も的確な判断を下しており事件解決に結びついていると、同僚スタッフからは高く評価されている。
捜査においては、容赦なく敵を射殺したり、証言を得るためなら脅迫や拷問に等しい取調べを行うなど、冷徹な一面も持つ。パーマー殺害犯に対しては、重傷を負った犯人をためらうことなく射殺している。取調べの際には、激昂して怒鳴り散らすため、見た目には冷静さを失っているように見えるが、本人曰く「犯人を追い詰めるために、わざとやっている」とのこと。(ジャック・バウアー-Wikipedia)
犯罪者は、警察がルールに縛られている事を知っている。ジャック・バウアーを恐れるのは、彼がそのルールに縛られないことである。その点で、ジャック・バウアーの精神的レベルは犯罪者に近い。犯罪者は、全てのルールに束縛されないからだ。彼らは、自分が生き延びることしか関心がない。一方、ジャック・バウアーは建前上、「正義感と忠誠心に厚い、アメリカ合衆国の真の愛国者。」とは書かれているが、その行動は彼自身のルールに乗っており、最終的な結果さえ正しければいいと考えているようだ。したがって、このドラマの構造上、ほとんどの登場人物は死にいたる。新顔が現れたと思ったら、たいていその2時間後に犠牲者になっているくらいだ。これは、アメリカ社会が銃社会である事を反映されていると思われる。

ルールで警察を縛ることで犯人を捕まえにくくすることか、ジャック・バウアーのような無法者であっても、犯人を捕まえるためなら何をしても良いとすることか。「24」が全米で絶大な人気をもっているところを見ると、視聴者は後者を求めているように見える。

銃社会の論理矛盾

僕は、「アメリカ乱射事件とアメリカの正義」でこう書いている。
こういう事件が起きると、いつも出てくる言葉は、アメリカライフル協会のスローガンだ。

人を殺すのは人であって銃ではない

僕は「正戦の論理とスターウォーズ」というタイトルで文章を書いたことがある。

家族を守るために武器を持って戦うというのは、理解できるだろう。その論理を拡大していけば「正戦の論理」となる。自分の国を脅かす国家がある。その国家を排除すれば自分たちの平和を築くことができるのだという論理である。ただ、相手の国には相当の兵器があるとすれば、対抗上自分の国の軍備も増強しなければいけない。そうでなければわざわざ死にに行くようなものであるからだ。
アメリカでは自分の家族を守るためには武器を持つ権利があると説く。これは、家族一つ一つが国家のようなものである。隣の家の武器が強力になれば対抗上、より強力な武器を持たなければならない。

この論理を具体化したのが、ジャック・バウアーである。「その行動は彼自身のルールに乗っており、最終的な結果さえ正しければいいと考えているようだ」と「人を殺すのは人であって銃ではない」 が結び付いたとき、つまり「正義感と忠誠心に厚い、アメリカ合衆国の真の愛国者」である限り、ジャック・バウアー=銃であり、ジャック・バウアーが正義のために行った行動には責任がないと言うことになる。

聖書もコーランも復讐を認めていなかった

僕は、「テロリズムと神、幕僚長の奇妙な思想」で、宗教と正戦の関係を考察した。

たとえば、「復讐するは我にあり」(新約聖書・ローマ書)では、

愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」ローマ書12・19(佐木隆三著「復讐するは我にあり」講談社文庫)

愛する者たちよ、あなたがたは自分自身で報復せず、むしろ(神の)怒りに場所を譲りなさい。(次のように)書かれているからである。復讐は私に属すること、私こそ報復する、と主が言われる。(ローマ書12-14〜21)(荒井献・池田裕一編著「聖書名言辞典」講談社)

一方、旧約聖書(キリスト以前の聖書)には、「目には目を、歯には歯を」の言葉が載っている。ここから、正戦の論理が始まっている。
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。彼が他人に負わせた傷と同じことが彼にも負わされなければならない。(レビ記24-20) (荒井献・池田裕一編著「聖書名言辞典」講談社)

宗教社会学の権威、カリフォルニア州立大バークレー校のロバート・ベラ名誉教授(76)は、毎朝、説教集をひもとくというブッシュ大統領に手厳しい。「何かと神を引き合いに出す割に分かっていない」

「復讐(ふくしゅう)するは我にあり」を順守すれば、防衛戦争もできない。そこで、キリスト教がローマ帝国の国教となった4世紀以降、徐々に整えられたのが「正戦」(Just war)の理論だ。(1)不当に攻撃を受けた(2)反撃は度を超さない(3)関係ない者を傷つけない、として戦争は正当化されてきた。

「アフガンはともかく、今回のイラク戦争がこれにあたるのか」と教授は言う。(2003年5月3日朝日新聞be「ことばの旅人」社会部・森北喜久馬)

ところが、キリスト自身はこの「目には目を」には批判的だ。
あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」38-39節 (新約聖書[布忠.COM] )
なお、この「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」にこんな考察がある。
(中略) つまり、この言葉は、単なる「相手の暴力・差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味ではなく、「暴力は使わず、根本の意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉であった、というわけです。旧約聖書の「目には目を」という「報復行為」と対比されることが多いために、私はこれまで単なる「無抵抗主義を示す言葉」だと思っていたわけです。しかし、実はそうではなかった…ということがとても面白く、興味深く感じたのです。(平林純@「hirax.Net」の科学と技術と男と女(リンク切れ)
さらに「目には目を」はイスラムのコーランにもある。
例えば、「殺人の場合には、目には目を歯には歯を、が規定である。」という有名な文章。しかしこれも、続く言葉をそのまま読めば、「つまり、自由人には自由人、奴隷には奴隷、女には女。しかも、当事者が許す、と言った場合には、正々堂々と事を運ばなければならないし、また(殺した)当人も立派な態度で償いの義務を果たさなければならない。」とあり、一人殺されたならば、同格のもの一人の命、と言うことであり、いたずらに命を奪ってはならない、と読むことが出来ます。また、命に値するだけの償いで納得する場合には、復讐心を持ってはならないとも言っています。これは、報復に継ぐ報復によっていたずらに多くの命を失うことを避ける為の規定と取れ、この部分だけを見ても、今「イスラム過激派」と呼ばれる人たちがしている「テロ・無差別テロ」がコーランから外れており、多くのイスラム教徒の信仰とは、異質なものであるといえます。(中東問題私的考察(リンク切れ)
宗教が、復讐を勧めることは、結局、自分たちの信徒を狭めることになり、根本的に矛盾している。

ジャック・バウアーが「アメリカの正義」を表しているとしたら、社会的ルールが何のためにあるかがわからなくなってくる。後から「正義のための行動」といえば許されるとしたら、何でもありになってしまう。ルールを守って殺された人にとってルールは何のためにあるのだろう。
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