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素人だから言えることもある

「真面目が一番」だけじゃやっていけない時代

日経ビジネスオンラインの記事から

真面目が“バカ”を見る?! 日本社会の未成熟」(河合 薫の新リーダー術)を読んだ。
ひたすら頑固なまでに、彼らは決まった仕事を決まった時間に繰り返す。何事も起こらないように働くことが、彼らに課せられた最大の使命だ。だから、彼らは決められたことを、ミスのないように、徹底的に真面目にやる。彼らからは、「上司に評価してもらおう」とか、「いいところを見せよう」とか、「他人をおとしめてやろう」といった、卑しさや野心を微塵も感じることがない。

日本という国は、こういう人たちに支えられているんだよなぁ」とつくづく感じるのだ。(河合 薫の新リーダー術「真面目が“バカ”を見る?! 日本社会の未成熟」)

おそらく、典型的な勤勉な日本人の姿である。結構、共感している人も多いだろう。でも、不況になり、どんどんパイが小さくなり、真面目なだけでは、とてもやっていけなくなった。正社員はもとより、非正規社員だって、みんな真面目に働いている。プラスアルファが必要ではないだろうか。

最近、龍馬ブームにかこつけて、「バカ者」の話をしているが、「コリコウな人々」だって、「バカ者」だって、みんな真面目である。ところが、「コリコウな人々」からみると、「バカ者」は真面目には見えないらしい。突拍子な事を言い出したり、夢物語をしたりして不真面目に見えるらしいのだ。僕は、「コリコウな人々」の特徴をこう書いている。

細かいことによく気がつき、大きな失敗はしない。だが、大局に立つことは苦手だ。ほどほどに知能が高く、常識を守り、保守的だ。常識を打ち破る人間に対して、抵抗したり、足を引っ張る。官僚的、組織的ともいえる。また、目の前しか見えないので、自分の今の地位や生活を守ろうとする。(コリコウな人々)
本来、小心者の彼らは、毎日毎日、決められた仕事をするのには格好の性格だ。高度成長期なら、これほど適合したタイプはない。だが、最近のように、明日の仕事がどう変わるか分からない激動期には、あまりにも近視眼だ。明日が分からないからこそ、現在の生活を守ることに必死である。だが、こんなときだから、かえって、将来を見据えた発想をする必要があるのではないか。

真面目だけど将来を考えない

「コリコウな人々」と「バカ者」の違いは、将来の事を考えるか、考えないかの違いである。僕は、「現代日本人の精神の貧困「三ない主義」」で現代日本人の特徴を、「対話がない」「考えない」「希望がない」と書いた。龍馬はまったくそれとは逆だ。龍馬は、日本中、駆けずり回って、日本の将来について熱く考え、人と対話し、説得している。

一方、今年の流行語大賞のトップ10に輝いた言葉に「無縁社会」というものがある。無縁とはつながりがないということである。そもそも「無縁社会」とは、NHKが流行らせた言葉で、NHKの番組ディレクター、板垣氏は、

板垣淑子(報道社会番組ディレクター) 取材してみると、完全に無縁なんていう人はいないんです。今の無縁というのは、親族や故郷はあるんだけど、それらが機能していない。縁がないのではなく「縁が機能しない」ということなんです。その人が自ら一人ぼっちの生活を選択したのだとしても、その結果、社会の救済システムが届かないところにすぐ転がり落ちてしまう危うさがある。そこに問題があるのだと考えています。(週刊ダイヤモンド2010年4月3日号 NHKスペシャル無縁社会」制作者座談会)( 無縁社会と三ない主義)
「対話がない」「考えない」「希望がない」は、結局、人間がどのように繫がってきたかを示すものであり、生の人と人との人間関係にある。皮肉なことに、真面目な会社員ほど、退職した瞬間に、家族から「粗大ごみ」扱いされている例がある。それは、仕事一途に頑張ってきたため、地域とは疎遠であり、家族とも対話がなく、ただ、明日の仕事さえ考えていればよいという関係である。また、パソコンが職場に導入されたため、職場の人間の顔より、パソコン画面に向かっている時間が長いなんて笑えない現実もある。

職場の人間関係を考えていくと、「まじめに働く時代は終わったのか」で引用した「失敗学」の工学院大学畑村洋太郎教授の言葉が改めて身にしむ。

畑村 (前略)こういう言い方をするのは初めてなのですが、形を変えて捉えると、広い意味でみて「コミュニケーションがおかしくなっている。断絶している」と感じます


——コミュニケーションがおかしくなっている原因は何でしょうか

畑村 身近な例だと、正社員の代わりに派遣社員やパートタイマーを雇用すること、仕事のある部分を外注に出すこと、そして企業を分社化することなどです。これらは一見コストダウンのように見えますが、その金額に見合うよりももっと大きな“潜在的な危険=リスク”を金額に換算しないから、コストダウンのように見えているだけです。

派遣社員やパートタイマー、外注が増えれば増えるほど、企業のトップやプロジェクトのリーダーが考えていることや決めたこと、他社や消費者が考えていることなどが伝わらなくなります。上司が部下に伝えたつもりでも、何段階かいくと変質したり消えてしまったりして、企業が本来行わなければならないコミュニケーションが、ぶつ切れになる怖さがあるのです。コミュニケーションが不足・断絶した状態で業務を推進すると、結局は何かしら失敗が起こり、企業は莫大なコストを払うことになります。

(中略)

——ほかに「失敗学」から見て最近気になることがありますか

畑村 これもコミュニケーションの一種といえますが、人とシステムの関係もおかしくなっていると感じます。人とシステムの間にも、やりとりしなければならない情報はたくさんありますが、人々の多くは情報を狭い意味でしか捉えていないという感じがします。情報をやり取りするということが本質的にどういう意味を持ち、自分が何をしなければならないのかを、きちんと考えている人はほとんどいません。だから日本の社会全体で、ものすごい退歩が起きています。人間が致命的にダメになる状況、“縮退”へと急激に進んでいるのです。

(中略)

社会の中では便利になったと称して、実は人の頭脳を“縮退”させてしまっているという恐ろしい事柄がたくさんあります。人間は横着ですから、サポートがあると必ずサポートを前提に行動するようになります。だから物事が進歩・発達しているといっても、果たして本当に進歩かどうかは、根元の問題をよく考えてみないとわからないのです

(中略)

日本の社会でいちばんいけないのは、「出る杭は打たれる」ということ。チャレンジする人を、皆で見せしめにしてしまうのです。そうすると、次にチャレンジする人がいなくなってしまいます。国民の多くがそうした社会を願っていないのに。一部の人がそうした社会を作ろうとしているように見えますね。

事業の失敗は、社会全体で見たときには「許される失敗」、「許すべき失敗」なのです。日本もアメリカなどのように、失敗に学んだ経営者が再チャレンジできる社会に早くならなければいけないと思います。(「失敗学」のすすめ

改めて、思うのは、龍馬は失敗しても、失敗してもチャレンジする事をやめなかった事実である。人間は、チャレンジをやめた瞬間から、腐り始める。「真面目」だけでは、人間復活は成し遂げられないのである。
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