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素人だから言えることもある

マスから個人への動きは世界規模で起こっている(マス消滅元年・2)

 トフラーの「富の未来」を使っての記述を続ける。2011年は「マス消滅元年」になるかで、ブログの性格上、主にマスメディアの問題を取り上げてきた。しかし、この「マスから個人への動き」は、私たち世界中の全ての人々に関係している。これは、SF映画の大パニック映画と同じように、世界中に降りかかった災難である。インターネットを使わないからといって免れることはできないし、電子書籍より紙の本を選んでも、選ばなくても関係ない。もちろん、マスメディアだけの問題でもない。ただ、インターネットによってこの動きを加速したのは歴然とした事実である。

 東京都の石原東京都知事は、今年の漢字を「衰」だと言った。

「暑い。はあ。ああ、なるほどね。まあ、それはずいぶん人を弱らせましたが、国全体で考えると私は『衰(すい)』だね。衰弱の「衰」。国全体は。そんな感じがしますなあ。これも如実に、夏だけの現象じゃないよね、これは。本当に。国全体が沈もうとしていますよ。まあねえ、なんか大連合の噂もあるけど、けっこうじゃないですか。うん。単独の政党でできないんだったらね、組んでね、赤信号みんなで渡れば怖くないでね、みんなでワーっとやるんだったら、できることありますよね。消費税だってそうだし、憲法改正だってそうだし。そうですねえ、あと、集団(的)自衛権の行使もそうだしね、うーん」(石原知事 今年の漢字『衰』「一人意気軒高は中国様」イザ! )
 なるほど。石原都知事は、既得権者の代表である。彼から見ると、今の日本はそう見えているに違いない。だが、「富の未来」にはこのような記述がある。
 社会の高齢化が急速に進み、年金基金が積み立て不足に陥っていることで、年金生活者と若い勤労者の間で世代間戦争が起ころうとしている。若者は自分たちが引退する時期になれば基金に何も残っていないのではないかと恐れている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P32)」講談社)
 これは一見すると、現在の日本を描いているように見える。実はそうではない。2005年頃のアメリカを描いている。

 僕は、「無縁社会と三ない主義」で、どんどんつながりを切っていく日本人の精神性を考えた。この点でも、アメリカにも似たような状況があるという。

 さらにいうなら、社会を支える安定した基盤である核家族制度が、これほどの混乱状態にあるのはなぜなのか。前述のように、いまではアメリカの全人口のうち、いわゆる標準世帯、つまり父親が外で働き、母親が家にいて、18歳未満の子供がいる世帯の人の比率は25パーセントを下回っており、1960年代とは様変わりしている。アメリカの子供のうち31パーセントは片親か親のいない世帯で暮らしている。65歳以上の人口のうち約30パーセントが一人暮らしである。また、結婚したカップルのうち50パーセントが離婚しているのはなぜだろう。アメリカの若者はいまでは、最初の結婚はいわばリハーサルなので子供を作らないようにし、ほんとうの結婚はその後にすると考えるようになっている。アメリカで孤独という病が蔓延しているのも不思議ではない。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P26)」講談社)
 日本はアメリカほど離婚率は高くないが、むしろ未婚率が高い。収入が落ちているので、子供を作らない。そしてこの危機は世界規模で起こっているという。
 だが、徐々に姿をあらわしてきた内部崩壊の意味を完全にとらえるには、アメリカ国内の動きをみているだけでは不十分だ。アメリカだけの問題ではないのだ。ドイツやフランス、イギリスから日本や韓国まで、破綻の伝染病が同じように広まっている。アメリカと同様に、まずは核家族が崩壊し、主要な制度へと裂け目が拡大している。(P35)

(中略)

 そして、これほど多数の制度の危機が密接に関連しあったことはなかった。現在では、強力なフィードバックの仕組みによって家族と教育と仕事と医療と年金と政治とマスコミが結びつけられ、これらのすべてが富の体制に影響を与えているのである。そして、再グローバル化のために、これら危機が金融市場に与える影響が、かつてなかったほど短時間に、かつてなかったほど多数の国境を越えて波及している。

 したがって、いま起こっているのは孤立した混乱と激動ではない。システム全体の破綻であり、不安定な状況にある制度に依存している社会全体にとって、死活問題なのである。
(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P39)」講談社)

 世界の人々は孤立に向かっているのに、制度が間に合わない。制度を変えたくても縦割りのために動かない。
 民間セクターの企業やNGOはともにグローバル化しているのに対して、公共組織の大部分は国か地方の範囲内でしか活動していない。

 要するに、高速の通信と輸送によって世界中が結ばれているために、財やサービス、人、考え方、犯罪、病気、環境汚染、テロがすべて国境を越えて広まっている。それによって国家主権という伝統的な見方が侵食され、地方や国の目的だけを追求するように設計された公共セクターの制度が出し抜かれ、追い越されている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P46)」講談社)

 ウィキリークスのアサンジ氏が、別件逮捕でしか逮捕できなかったり、ネットに流出させた尖閣ビデオ問題が、結局「公共性」の問題でうやむやになるようなものである。法律が想定した事をネットが簡単に飛び越えてしまうのは、制度がすでに時代遅れになっている証拠である。
 大量消費市場からの撤退を促す要因にはさらに、メディアと広告でいま起こっている革命がある。メディアと広告がなければ、現在のような資本主義的市場は成り立たなかっただろう。

 過去に圧倒的な地位を占めていたマス・メディアが後退し、いまではますます小さな市場セグメントを標的にできる非マス化したメディアが勃興している。この動きは1961年には始まっていて、筆者は当時、IBMの出版物で指摘したが、2004年になると誰の目にも明白になり、フィナンシャル・タイムズ紙がようやく「ひとりの聴衆」の時代、「大量消費市場の終わり」を宣言するまでになった。

 この新しい市場環境への移行に失敗した企業は、「細分化」の行き過ぎを嘆いている。新しい環境で成功している企業は、顧客に提供する選択肢が増えたことを歓迎しており、顧客の側は、個人化の傾向を強めている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P125-126)」講談社)

 かつて、インターネットがなかった頃、書き手と読者の間には厳然とした壁があった。読者が、自分の意見を書き手に求めても、何ヶ月かかり、編集者の目を通らなくては書き手に届かなかった。また、書き手になろうとしても、マス・メディアのお眼鏡にかなう必要があった。

 インターネットはそれをより簡単に、無料で発表する時代になり、相対的に、有料の(新聞の)記事と無料のブロガーの記事を読み比べることができると、読者は、その新聞記事は、有料にする価値があるかと言う評価をする。いままで、せいぜい一紙のみを購読していたので、それを信じるしかなかった読者は、現在では他紙と読み比べが無料でできるという時代になった。

 読者が賢くなれば、より自分に合わせたジャストフィットの記事を求める。広告も同様である。そのため、何でも取り揃えた高コスト体質のマス・メディアがその巨大な母体を維持できず、より深く細かいローコストのミドル・メディアが増えるのは当然である。


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