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素人だから言えることもある

ジャーナリズムもマスから個人へ(マス消滅元年・5)

コタツジャーナリズムorデータ・ジャーナリズム

不思議な時代になったものだ。テレビで、トルネの自分のツィッターのタイムラインを見ている。昨日(12月17日)、その中で、フォローしているAV Watchなどで書いている本田雅一氏のツィッターがあった。
で、誰か特定の個人を攻撃したり、業界全体を不信感に落とすような二元論(現実社会でキレイに二元論に落ちることなんかあるわけじゃないじゃない)で混乱させたり、ジャーナリズムでもないことをジャーナリズムと言わなければ、別に佐々木さんの事はどっちでもいいです。直接、関わるわけじゃないから(http://twitter.com/#!/rokuzouhonda/status/15695747726974976)
佐々木さんといえば、前項佐々木氏の「ソニーは死んだ」発言で思い出すソニーの「バカ者」で触れたSONYとのトラブルを言っているのだろうか。そこで、本田氏のタイムラインを開いてみる。どうやら、同じくAV Watchのライターの西田宗千佳氏とツィートしている。それが佐々木俊尚 (sasakitoshinao)さんのSONY批判ツイートとそれに対する本田雅一(rokuzouhonda)さん・西田宗千佳(mnishi41)さんの反応にまとめられていた。気になったのは、「コタツ記事」
ええと、”コタツ記事”というのは、ブログや海外記事、掲示板、他人が書いた記事などを”総合評論”し、コタツの上だけで完結できる記事の事を個人的にそう呼んでます。自分たちでコタツ記事が優れていると宣言している方もいれば、言ってない方も。柔らかな言い方をすると「文献派」の方々(本田氏)
佐々木氏は、
人に会って取材するというのはもちろん今でも重要だけど、それと同じぐらいの価値でブログなどを経由した情報の重要性が高まってきていると思う。個人的には記者発表会でだらだらつまらない質疑応答聞いてるよりは、発表会を報じるブログやニュースを読んでからピンポイントで人に会いに行く方が良い。

だから私は基本的には発表会にはほとんど参加してません。あと左耳の聴力がなくて雑踏では声をほとんど聞き取れないので、見本市取材も皆無。情報収集は膨大なウェブの情報源を横断し、後はピンポイントで会いたい人に会う。それだけ。

いま700ぐらいのフィードを購読し、毎日1000強の見出しが流れてくる。これが私にとっては最強の情報源で、発表会レベルの話はこれでだいたいカバーできる。あと「業界裏話」とか「人事」とかはいっさい興味ないので、そういう取材もしない。

そして、このような手法を佐々木氏はデータ・ジャーナリズムと呼ぶ。
そもそもデータジャーナリズムなんて旧来のジャーナリズム定義でいえば、「こんなのジャーナリズムじゃないだろう」と一蹴されるようなものなわけだしね。
本田・西田両氏が、取材を強調するのは、かつてのマスメディア側の主張に重なる。僕は、「ブロガーのスキル」でいろいろ論考したが、その中で湯川鶴章氏の言葉と佐々木氏の言葉を引用したい。
それでも次のようなコメントが寄せられることがある。「足で情報をとってこなければジャーナリズムではない」「新聞記事を論評する程度のことはジャーナリズムではない」などといったコメントだ。別の言い方をすれば、「ジャーナリストは人のとってきた情報について、ああだこうだ言うのではなく、自分の足で人に直接会って情報をとってくるべきだ」ということになる。

つまり、職業的にはフリーだけでなくアマチュアまで含めてもいいが、自分で取材しなければジャーナリズムではないという考え方だ。

ただ、そう考える人は少数派で、多くの人は「プロのジャーナリストの中にもあまり取材せずに評論を活動の中心にしている人もいるので、評論だけのブログもジャーナリズムと認めてもいいのではないか」と認識している。(湯川鶴章著「ブログがジャーナリズムを変える」NTT出版)(ブログ・ジャーナリズムは誕生するか)

記事というコンテンツは、「一次情報」と「論考・分析」という二つの要素によって成り立っている。新聞社は膨大な数の専門記者を擁し、記者クラブ制度を利用して権力の内部に入り込むことによって、一次情報を得るという取材力の部分では卓越した力を発揮してきた。だがその一次情報をもとに組み立てる論考・分析は、旧来の価値観に基づいたステレオタイプな切り口の域を出ていない。たとえばライブドア事件に対しては「マネーゲームに狂奔するヒルズ族」ととらえ、格差社会に対しては「額に汗して働く者が報われなければならない」と訴えるような、牧歌的な世界観である。

このようなステレオタイプ的な切り口は、インターネットのフラットな言論空間で鍛えられてきた若いブロガーから見れば、失笑の対象以外の何者でもない。彼らは新聞社のような取材力は皆無で、一次情報を自力で得る手段を持っていないが、しかし論考・分析の能力はきわめて高いライブドア事件にしろ格差社会問題にしろ、あるいはボクシングの亀田問題にしろ、読む側が「なるほど、こんな考え方があったのか!」と感嘆してしまうような斬新なアプローチで世界を切り取っている。

今の日本の新聞社に、こうした分析力は乏しい。論考・分析の要素に限って言えば、いまやブログが新聞を凌駕してしまっている。新聞側が「しょせんブロガーなんて取材していないじゃないか。われわれの一次情報を再利用して持論を書いているだけだ」と批判するのは自由だが、新聞社側がこの「持論」部分で劣化してしまっていることに気づかないでいる。ブロガーが取材をしていないのと同じように、新聞社の側は論考を深める作業ができていないのだ。(佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」文春新書)(読売新聞「新聞が必要 90%」の謎)

佐々木氏は、自らの体験を持って、実験しているように見える。

ツィッターで明らかになるジャーナリストの本音

もちろん、本田・西田両氏が、論考・分析力が低いといっているのではない。論考・分析力がすごいからファンが増えているのである。例えば、取材するときに当然ながら所属するマスメディアの力が必要である。我々のような一ブロガーと違って、取材される側は、好印象な記事を書いてもらえるように努力するであろう。取材する記者によっては、通り一遍の記事だけ書く人と、本田・西田両氏のように一生懸命調べて書く人がいる。例えば、西田氏の
ぼくらだって取材が100%か、というとそうではない。行きたいに行けていないとこと、聞けていない話の方が多くて忸怩たる思いでいっぱい。そんな中で最善を尽くすのがこの仕事だとおもってます。楽にいい原稿なんてできませんって。常に反省ばっかりです。
だが、そのような謙虚に反省する人にファンがつく。つまり、同じマスメディアの記者であっても、差がついていく。佐々木氏にしても同じである。膨大な情報源の中から、ピンポイントに対象を絞っていくことは、それなりの経験が必要なのだ。単なる業界人の記事をありがたがって読む人はいない。マスメディアだから読むのではない。そのライターが書いたから読むのである。

今回、ツィッターでそれぞれのジャーナリストの本音が見えて面白かった。取材方法は違っていても、面白いものは面白い。そのライターが選んだお勧め記事を読む=「キュレーター」なのではないだろうか。
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