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素人だから言えることもある

ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6)

取材しなければジャーナリストになれない?

ジャーナリズムもマスから個人へ(マス消滅元年・5) 」で、問題になったのは、佐々木氏の取材方法であった。しかし、我々ブロガーにとって、このような取材方法、つまり、発表会や記者会見に取材するような方法に限定されてしまうと、結局、マスメディアに属さなければジャーナリストになれないということになる。

そもそも、メーカーやタレントは、何のために発表会や記者会見を開くか。それは、マスメディアに報道してもらうためである。マスメディアというバックがない我々には、当然取材方法が限定されてしまう。本田・西田氏の言うことは、当然、そうでありたいと思う。だが、取材の現場が記者クラブ等、限られたものである限り、我々は、ジャーナリズムに触れられなくなってしまう。本来、ジャーナリズムとは、マスメディアが国民の知る権利と言う機能を代弁する機関としてマスメディアがあったはずだ。そこで、マスコミとジャーナリズムを検索してみると、こんな記事にヒットした。

Socius社会感覚12 ジャーナリズム論

しかし、このブログでは、どこからが引用で、どこからが自分の主張か分からない。そこで、明らかにするために引用元の新井直之「ジャーナリストの任務と役割」『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五](日本評論社一九八六年)を図書館から探す。東京都内の図書館で見つけたのはわずか目黒と品川の図書館の2つのみ。今回はその本を使ってジャーナリズムを考えていく。

ジャーナリズムの責務と2種類のジャーナリスト

いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う。「伝える」とは、いわば報道の活動であり、「言う」とは、論評の活動である。それだけが、おそらくジャーナリズムのほとんど唯一の責務である。それ以外の、たとえば娯楽や広告媒体としての活動は、マス・メディア一般の活動分野ではあるにしても、ジャーナリズムにとっては付随的なものでしかないのだ。

そこでは、継続性、定期性ということはもはやほとんど重要ではなくなってくる。いま伝えなければならないことを、いま、伝え、いま声をあげなければならないことを、いま、声を上げて言う、ということでありさえすれば、それがただ一回限りの行為であったとしても、それは十分にジャーナリストとしての活動と言い得るであろう。必要なのは、いま、伝えねばならぬこと、いま言わねばならぬことを、勇気を持って一刻も早く広めることだ。したがって、ジャーナリズムの活動は、あらゆる人がなし得る。ただ、その活動を、日々行ない続けるものが、専門的ジャーナリストといわれるだけなのである。そして言うまでもないが、それはペンを持つ人間だけを指すわけではない。カメラを持っても、マイクを握っても、みなジャーナリストたり得るのである。(新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p26『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社

したがって記者会見や発表会は、メーカーやタレントにとっては、広告活動であり、マス・メディアにとっては、企業存続のための収入源でもある。多くの発表会や記者会見は、メディアに料金を請求してないのを見ても分かるように、これらのイベントは主催者側が広告・宣伝費として予算を計上しているはずである。

同じ新井直之氏の「ジャーナリズム いま何が問われているか」(東洋経済新報社)にこんな記述がある。

記者クラブにすわっていて、発表やレクチュアがあるとそれを短時間でまとまった記事に仕立てて、あとはまた発表待ちの待機の姿勢に戻る。といったやりかたや、デスクになにかを指示されると、気軽に飛び出して行って短時間で原稿に仕上げてそれですんでしまう、といったやり方では根気も問題意識も民衆からの取材の専門的知識も生まれようはない。

しかも、どうやらいまのジャーナリズムでは、そのような小器用で要領のいいジャーナリストが有能で優秀な記者として珍重されているように思える。そういう記者が増えてきているように思える。しかし、ほんとうに「事実」を取材しようとするなら、その取材方法はもっと不器用で、ねちっこいものなのではないだろうか。

このごろの新聞はどれを見ても同じだ、という意見がある。実際に読み比べれば、事態の解釈や論調、あるいは報道にかなりの差はあるのだが、大方の読者にとってそれは微差にしかすぎず、大要においてはほとんど変わりないと映るのも当然かもしれない。どの新聞も大同小異だということは、新聞にスクープが少なくなったということだ。

前に書いたように、新聞記事や放送のニュースの九割までが官庁、団体、企業などの発表もので埋められている状況では、ジャーナリズムは公報化し、個性を失うのも当然である。それはジャーナリズムにおけるジャーナリズム性の喪失だ発表ものではない、ジャーナリストの手によって掘り出されたニュースが紙面や番組を埋めるようになれば、ジャーナリズムはもっといきいきとし、個性を持つようになるだろう。(新井直之著「ジャーナリズム いま何が問われているか」P73/東洋経済新報社)

一方、「いま、伝えねばならぬこと、いま言わねばならぬことを、勇気を持って一刻も早く広めること」というのは、発表ものではない、ジャーナリストの手によって掘り出されたニュースのことであり、このような計画的なイベントとは違う。新井氏は、そのようなスクープの条件として(1)粘り強い取材(2)鋭い問題意識(3)民衆の中で取材(4)専門知識の4つをあげている。その民衆の中での取材の項目中で新井氏はこんな事を言っている。
今日、新聞記事やラジオ・テレビのニュースの九割までが、官庁、団体、会社などの発表もので埋められているといっていいだろう。民衆をニュース・ソースとする記事は、きわめて少ない。民主主義の世の中といいながら、ニュース・ジャーナリズムの上では、政治権力や資本が圧倒的な主流となっており、民衆の行動や意見にほとんど取材陣が振り向けられていないのである。民衆の行動や意見や生活を伝えるニュースは、ほぼ完全にスクープになる。しかも今日では、大状況の動きと民衆一人ひとりの日常生活とは地下茎のように錯綜しながら結び合っているのであり、民衆を掘って行くことによって状況の動きに突き当たることが多いのである。(新井直之著「ジャーナリズム いま何が問われているか」P71/東洋経済新報社)
インターネットの世の中になり、全ての人が発言する時代になった。マス・メディアに所属しなくても、(1)粘り強い取材(2)鋭い問題意識(4)専門知識さえあれば、民衆の中からジャーナリストが登場することを意味する。

「知る権利」とジャーナリスト

民主主義政治とは、国民全員が直接または間接に政治に参加する制度である。民衆は自分たちの将来について自ら選択しなければならない。そのためには、自らの置かれている状況を十分に認識できる条件が、国民全員に与えられている必要がある。一部の特定の人々にだけ状況についての情報が豊かに与えられ、ある種の人々には、乏しい情報しか与えられていないというのでは、自らの将来について判断する資料が特定の人だけに集中し、他の人々には伏せられることになる。また国家機関がこれまでしてきたこと、およびこれからしようとしていることが、すべての国民に十分に公開されていなければならない。ここから国民の「知る権利」が生ずる。

したがって「知る権利」は、国民の一人ひとりがみな持っている権利なのであり、ジャーナリズムはその権利にのっとり、その権利の行使として、行為しているのである。だからジャーナリズムおよびジャーナリストは、第一義的に民衆に奉仕する責務を持つ。権力(あらゆる意味の)代弁を勤めるジャーナリズムは、ジャーナリズムと呼ばれる資格を持たない。また、ジャーナリストが持っている権利は、民衆一人がひとりが持っている「知る権利」とまったく同等なのであって、それ以上でもなければ、それ以下でもない。なんらの特権も持っていない。しかし実際には、職業的ジャーナリストは、記者クラブにも最も代表的に示されるように、ニュース・ソースへの接近などで特権的地位を与えられている。だがそれは、民衆の「知る権利」の代表として得たのでしかない。しかし、ジャーナリストは往々にしてそれを自覚しないか、あるいは忘れる。基本的には民衆が持つ権利以上の特権を持たず、しかし実際には特権的ポジションにいる−その矛盾を自覚した緊張感を絶えず持ち続けることが、ジャーナリズムに要請される。(新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p26-27『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社

マス・メディアの内と外のジャーナリスト

ジャーナリストは、ほとんどなんらかの形でマス・メディア企業と関連を持つ。多くの場合企業に所属し、企業に属さないフリー・ジャーナリストでもマス・メディア企業を通ずることによって初めて作品を発表することが可能になる。マスコミといいジャーナリズムというと、巨大な組織を思い浮かべたくなる。しかしマス・メディアもジャーナリズムも、それはしょせん人間の集団である。先端的な科学産業のような装置産業ではない。ジャーナリズムの活動は、ジャーナリストが行うものであって、機械がするのではない。しかし今日ではジャーナリズムは企業という形態で維持されており、ジャーナリストは企業の中で組織化されている。そして、先に述べたように、企業はジャーナリストの精神活動の基点である主体性を奪おうとする。その企業の要求と、あくまで自らの主体性を守り通そうとする矛盾対立に、ジャーナリストは直面せざるを得なくなる。

このときに企業の側が盾として押し立ててくるのが「編集権」概念である。「編集権」についてはここでは詳述しない。ただ、この「編集権」概念が今日でも新聞経営者の多くにかたくなに信じ込まれていること、NHKでも放送法第三条「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、または規律されることがない」を、「放送番組の『編集』は放送事業者のまったくの専権に属する。言いかえれば、放送事業者は放送法第三条により放送番組の『編集権』を有する」と奇妙な解釈をして、いまなお「編集権」を絶対のものとして職員に押しつけようとしていることを指摘しておく。

このような企業の内部にあるジャーナリストたちに対して、いま保障されなければならないのは、「内部的自由」である。(新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p29-30『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社

新井氏は、この「内部的自由」について西ドイツの例を示している。
八五年にはノルトライン・ヴェストファーレン州で「西ドイツ放送協会(ケルン)法」が制定され、初めて法レベルで内部的自由が認められた。これらの綱領にほぼ共通しているは、(1)編集はあらゆる社会的勢力から独立であって、良心に反する記事・番組の制作を拒否し得ること、(2)編集者グループが代表権、情報収集権、理由開示権、公開権、拒否権を持つこと、などである。

このような「内部的自由」の考え方は、日本のジャーナリストの間にほとんど浸透しておらず、むろんジャーナリストの職能運動にはなっていない。

(中略)

日本のジャーナリズム企業は、ジャーナリストの主体的認識・主体的表現、つまり精神的自由を認めていない。その状況の中で、いま、伝えなければならないことを、いま、伝え、いま、言わなければならないことを、言うためには、ジャーナリストに強い意志が存在することを求められる。もちろん、ジャーナリストたちの連帯と協力も必要である。しかしまず、その「強い意志」があるかどうかが、ジャーナリストたるものの第一の資格要件であるように思われる。(新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p30-31『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社

ジャーナリズム いま何が問われているか」の冒頭にこんな話が出てくる。
近年のジャーナリズム報道の顕著な特色の一つに「相乗的なだれ現象」と呼ばれる状態がある。造語者の野崎茂によれば、これは「メディア間の運動、相互影響が極度にたかまり、マス・メディア全体として一種の眩暈状態におちいってしまって、エディターシップの麻痺ないし喪失がおこる、という状態をさす」。私が見るところでは、この現象には次の三つの共通した特色があり、いわば「総ジャーナリズム状況」とでもいうべき状態を呈する。

(1)ある事件にすべてのマス・メディアが動員され、(2)その事件に紙面・番組をできるだけ割き、(3)その報道の姿勢がすべて同じ。近年の大きな事件をふりかえってみると、すべてこの三つの特色が現れていることに気がつくだろう。事件が発生すると、新聞・ラジオ・テレビ・週刊誌・月刊誌を問わずすべてのメディアが総がかりで取材にあたり、活字メディアは紙面を大々的に割き、放送は特別番組を組み、そしてその報道内容がどれも似たり寄ったりだったりするはずである。

こういうと、すぐに反論が起こるかもしれない。大事件ならば、すべてのメディアが総がかりで取材にあたり、紙面・番組で大きく扱うのは当然ではないか、と。しかし、私は大事件だから総ジャーナリズム状況になったのだとは思わない。総ジャーナリズム状況のゆえに、われわれ読者、視聴者は大事件だと思ってしまうのだ。(新井直之著「ジャーナリズム いま何が問われているか」東洋経済新報社)

この本が書かれて30年(「ジャーナリズム」の発行は1979年2月)たった最近でも状況は変わっていない。ノリピー事件、海老蔵事件…。関心があるからといって、すべてのテレビがそちらに向かう必要はない。おそらく、そこにはマス・メディアの根本的体質と言うものであろうか。マス・メディアが30年変わらない現実と対照的に、マスメディアの受け手となってきた我々には、インターネットと言う新たメディアが登場し、ブログと言う自由に発言するチャンスが与えられた。そうなると、マス・メディアも変わらなければおかしいのだ。

マス・メディアは危機感を持ち、組織内のジャーナリストはますます閉塞していくことになるだろう。そして、取材源の大部分がネットとかかわっている現在、より自由に活躍するマス・メディアの外のジャーナリストがうらやましく思えてくるに違いない。ブログパーツ