夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

マス・メディアの終焉(マス消滅元年・8)

他人のコンテンツで商売している

ようやく、予約していた図書館から「グーグル秘録」を借りた。その中で、こんな文章が出てくる。
ユーチューブはまったく利益が出ていなかったため、ライバル企業の幹部はグーグルの買収額への嘲笑を隠そうともしなかった。かつてのナップスターと同じように、ユーチューブはいずれ著作権侵害訴訟に巻き込まれ、トラフィックを収益に結び付けられないはずだと見ていたのだ。

「今のユーチューブに、16億ドルという買収価格を正当化するようなビジネスモデルは何もない。著作権者についてはどうだ? つまるところユーチューブのコンテンツの多くは他人のものじゃないか」。マイクロソフトCEOのスティーブ・バルマーはこう言い切った。テレビやケーブル・ネットワークは、バルマーの言う“他人”とは、自分たちのことだと理解した。そして「ユーチューブは我々を踏み台にして成功している」と主張した。(ケン・オーレッタ著/土方奈美訳「グーグル秘録・完全なる破壊」P232/文藝春秋)

この箇所に来ると、どこかで聴いたような言葉だと思った。それは、やはりマイクロソフトの言葉だ。
グーグルは米リサーチ会社が選んだ今年の「最も影響力のあるブランド」の1位に選ばれ、マイクロソフトは3位とグーグルの後塵(こうじん)を拝した。オンライン広告大手ダブルクリックも先月、グーグルに31億ドルで先に買収され、マイクロソフトの危機感はピークに達した。米国出版者協会(AAP)の年次総会では「他人が作ったコンテンツに寄りかかっているだけの会社が広告や株式公開(IPO)で何億と稼いでいる」とグーグルへの対抗姿勢を強めていた。(検索市場 独走グーグル MS、ヤフー危機感 サンケイweb 2007/5/5 リンク切れ)( グーグル、マイクロソフト、ヤフー、それぞれの思惑)
ここでは、マイクロソフトの誰が言ったか書いていないが、「グーグル秘録」には、ファイナンシャルタイムズの記事から
10年前、今のグーグルと同じくらいメディア企業を震撼させたマイクロソフトまで、グーグルは「他人のコンテンツだけで利益を挙げている」と批判。グーグルの著作権に対する態度は「傲慢だ」と責め立てた。(ケン・オーレッタ著/土方奈美訳「グーグル秘録・完全なる破壊」P259/文藝春秋)
と書かれている。そういえば、日本でも同じような言葉があった。それは佐々木俊尚氏の「ブログ論壇の誕生」でこんな文章を引用した。
今の日本の新聞社に、こうした分析力は乏しい。論考・分析の要素に限って言えば、いまやブログが新聞を凌駕してしまっている。新聞側が「しょせんブロガーなんて取材していないじゃないか。われわれの一次情報を再利用して持論を書いているだけだ」と批判するのは自由だが、新聞社側がこの「持論」部分で劣化してしまっていることに気づかないでいる。ブロガーが取材をしていないのと同じように、新聞社の側は論考を深める作業ができていないのだ。(佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」文春新書)(読売新聞「新聞が必要 90%」の謎)
この三種類の文章の共通は、ネット・メディアはマス・メディアのコンテンツを利用して儲けているという意識である。新井直之氏が言うように、
ジャーナリストは、ほとんどなんらかの形でマス・メディア企業と関連を持つ。多くの場合企業に所属し、企業に属さないフリー・ジャーナリストでもマス・メディア企業を通ずることによって初めて作品を発表することが可能になる。(新井直之著「ジャーナリストの任務と役割」p29-30『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6)
このことが、マス・メディアに特権意識を植え付けてきた。だが、インターネットの普及により、時代は変わった。それは、マス・メディアがかけていた膨大なインフラコストが極端に下がり、マス・メディアを通過しなくてもニュースが世に出る時代になったことだ。そうなると、マス・メディアは社会の中心から一歩はなれることになる。全てをマス・メディアが演出する時代は崩壊しつつあるのだ。

マス・メディアの役割の交代

批評家の東浩紀氏が朝日新聞の「論壇時評」で佐々木俊尚氏の「ジャーナリズムはモジュール化する」を批評してこういう。
佐々木俊尚は、同じ変化をジャーナリズムの「モジュール化」として捉えている。かつてジャーナリズムは、新聞やテレビなど媒体によって垂直統合されていた。情報源への取材から要約、編集、最終的な読者への出力までがすべてひとつの主体により提供されていた。ところが、ウィキリークスを始め、この一年の「漏」の動きは、その統合が崩れ始めた事を意味している。一次情報はネットで当事者により公開され、要約や編集はプロアマ含めた有志のジャーナリストが行う、そして新聞やテレビはそれを後追いし大衆に拡散する。その新しい世界では、流通過程の全体を貫き、情報の真実性を保証してくれる媒体はどこにも存在しない。(朝日新聞12月23日「論壇時評」)
東氏は、佐々木氏が「ノイズ渦巻く荒々しい荒野へと変貌しつつある」と記していると書く。また、ITライターの小寺信良氏は、「ウィキリークスとジャーナリズムの関係」の中で、
過去リーク情報握っている人間がその情報を広く公開するためには、ジャーナリストの力を借りなければならなかった。つまり、国民の「知る権利」が具現化されるためには、ジャーナリストによる「知らせる権利」がイコールだったわけである

しかしネットの登場によって、事情が変わってきた。情報を持つものが直接、ジャーナリストやメディアを通さずにリーク情報を広く知らしめることができるようになってきたウィキリークスも一つのメディアでありジャーナリズムの一部であるという見方もできるが、これはリークする側にとっては単に「身の安全が確保できる仕掛けを持っているネットソリューション」にしか過ぎない。これも存続の危機ということになれば、別のソリューションを探すだけのことである。

(中略)

番組中でリーク内容の正誤を判断するのは誰か、というアンケートでは、「個人」という答えが最も多かった。だが個人というのは、自分の信じたいものを信じる、あるいはそうあったほうが面白いものを真実として受け止める傾向があり、訓練されたジャーナリストのように社会正義とのバランスの中で葛藤したりしない。個人に判断をゆだねるのは、結局は何も判断しないということとあまり変わらないように思える。

僕個人の考えでは、それらリークの裏を取る作業こそ、従来メディアの役割になっていくべきだと思う。もはや従来メディアは、第一報を伝えるという役割を終えようとしている。個人にはない予算と組織力を使って、じっくり腰を落ち着けた、裏がとれた解説を中心とする報道に切り替わっていくべき時代がきたのだろう。(ウィキリークスとジャーナリズムの関係)

とマス・メディアの役割を佐々木氏は単なる拡散としているが、小寺氏は真実の論証にすべきだという意見である。一方、佐々木氏は、
記事というコンテンツは、「一次情報」と「論考・分析」という二つの要素によって成り立っている。新聞社は膨大な数の専門記者を擁し、記者クラブ制度を利用して権力の内部に入り込むことによって、一次情報を得るという取材力の部分では卓越した力を発揮してきた。だがその一次情報をもとに組み立てる論考・分析は、旧来の価値観に基づいたステレオタイプな切り口の域を出ていない。(佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」文春新書)(読売新聞「新聞が必要 90%」の謎)
と論証部分である「論考・分析」を否定している。そして唯一のとりえだった「一次情報」すらも、「新聞やテレビはそれを後追い」する事態になってしまっている。まさにマス・メディアの終焉である。
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