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リビア政変でbit.lyが使えなくなる?そしてインターネットの真実

bit.lyは5つのDNSサーバによって運営されている

現在、カダフィ大佐と反政府組織との抗争で石油高騰が伝えられているが、ネットにも大きな影響がありそうだ。bit.lyは、このブログのURLを短縮するために活用されている。特に、ツィッターでは、bit.lyがなければここまでアクセス数は増えなかっただろう。ところで、bit.lyの「.ly」のドメインは、リビアのドメインだという。あきみち氏のブログ、「リビアのインターネットとbit.ly 」でこんなことが書かれていた。
Twitterなどを使っているとbit.lyというURL短縮サービスを良く見ますが、「.ly」というccTLD(country code Top Level Domain)はリビアです。現在、リビアが不安定化していますが、もしリビアccTLDが停止した場合、bit.lyが影響を受ける可能性もありそうです。

(中略)

digの結果を見ると、lyは5つのDNSサーバによって運営されています。これは全て推測ですが、2つがリビア(dns.lttnet.netとdns1.lttnet.net)に、2つがアメリカ(uunetとオレゴン大学)に、1つ(ns-ly.ripe.net)がヨーロッパにあるようです。
「5つのうち3つがリビア外なら問題ないんじゃない?」と思うかも知れませんが、実はそうでもなかったりします。

(中略)

Expireは、dns.lttnet.netが利用不能な状態が続いた時にセカンダリDNSサーバの結果をどれだけ使っても良いかを示しています。今回のbit.lyに限定して考えると、dns.lttnet.netが接続不能になったときに、アメリカやヨーロッパに設置してある(もしくは、してあると思われる) .lyのセカンダリDNSサーバをどれぐらいの期間使い続けられるかということになります。
このExpireの値は秒数で表現されますが、lyでの値は2419200です。 2419200を3600(1時間の秒数)で割ると672になり、672を24(1日の時間数)で割ると28になります。ということで、lttnet.netが何らかの理由で停止し続けても4週間は機能するかも知れません

(中略)

ということで、たとえばリビアのインターネットが完全に停止したうえで、リビアテレコムがサービスを提供不能になってlyのプライマリDNSサーバが機能不全に陥っても、現時点ではbit.lyは28日間は使い続けることが出来そうです。 (リビアのインターネットとbit.ly)

なかなか技術的なことはわからないので、どこまでを引用してよいのかわからない。ともかく、リビアが騒乱状態でbit.lyが停止したときから、28日間しかbit.lyは使えないのだ。しかし、bit.lyがサーバを世界に分散させているというのは、大変インターネットらしいことだ。よく、「分散型を選んだのは、核攻撃を受けても全体が停止することの無いコンピュータシステムを作るため」と言われる。そこでそれを調べてみる。

本当に核攻撃に強いインターネットを作るためだったのか

IT用語辞典によれば、インターネットは、アメリカの国防総省がはじめだという。
その起源は米国防総省の高等研究計画局(ARPA)が始めた分散型コンピュータネットワークの研究プロジェクトであるARPAnetであるといわれている。1986年に、ARPAnetで培った技術を元に学術機関を結ぶネットワークNSFnetが構築された。これが1990年代中頃から次第に商用利用されるようになり、現在のインターネットになった。(インターネット 【Internet】)
そのARPAnetを調べると
1969年に米国防総省の高等研究計画局(ARPA)が導入したコンピュータネットワーク。各地に分散したUNIXコンピュータ同士をTCP/IPで相互接続するという形態は、現在のインターネットの原型になったといわれている。全米の4ヶ所(カルフォルニア大学ロサンゼルス校、スタンフォード研究所、カルフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学)をつないで開通し、その後徐々に接続個所を増やしていった。当時主流だった中央集中型ではなく分散型を選んだのは、核攻撃を受けても全体が停止することの無いコンピュータシステムを作るためだったといわれている。(ARPAnet 【Advanced Research Projects Agency Network】)
ところが、この説にも批判がある。インターネット-Wikipediaによると、
1994年7月、アメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載される。ARPANET立ち上げ時のIPTO責任者であったロバート・テイラーは、この記事に対して事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行った。以降、ARPANETは核戦争時のための軍事ネットであるという俗説が流布するようになる。(インターネット-Wikipedia)
ロバート・テイラーは何を想定していたか。次に、やはりARPANET -Wikipediaから
ロバーツによってARPANETの基本的な仕様は固まったものの、実際にネットワークを構築するにあたって大きな問題が残っていた。

即ち1965年の実験でも失敗したコミュニケーション方式の選択である。

結論から述べるとロバーツが直面した問題はユダヤ系アメリカ人のMIT教授レオナルド・クラインロックが考案するパケット交換方式を採用する事によって解決したが、これがどのような意味を持つのかについては議論が分かれるところである。

即ちこの方式が1960年代前半にアメリカ空軍のシンクタンクであるランド研究所のポール・バランによって提唱された核攻撃下でも生き残れるコミュニケーション方式であるという点を持ち上げて冷戦構造全体の中で技術としての「インターネット」を議論するべきなのか、それともロバーツの言うとおりパケット通信はバランの研究とは全く関係の無いイギリス国立物理学研究所のドナルド・デービスの研究成果を反映したもので「インターネット」の誕生は新しいコミュニケーションツールとしての側面から評価してよいという議論までかなりの幅が見られる。少なくとも当時のIPTO責任者であったテイラーは、1994年7月にアメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載されたときに事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行っている。(ARPANET –Wikipedia)

タイム誌の「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」とのニュースソースは、アメリカ空軍のポール・バランであることがわかる。それに対して、抗議したロバート・テイラーは、単純に軍事ネット言われることに違和感を感じたのだろう。むしろ、新しいコミュニケーションツールとしてとらえてもらいたかったのか。このロバート・テイラーという人物(同名の俳優とは別人)についてWikipediaにこう書かれている。
ロバート・テイラー(Robert Taylor、1932年 - )は、情報工学者の1人。ARPAのIPTO(Information Processing Techniques Office)を指揮し(1965年 - 1969年)、パロアルト研究所の計算機科学研究室(CSL)の設立に関与し(1970年 - 1983年)、DECの Systems Research Center の設立にも関わった(1983年 - 1996年)。
テイラーは、メソジスト派の牧師の息子としてテキサスで生まれた。テイラーは心理学と数学を学び、最初に従事した研究は脳と聴覚の神経系に関するものだった。その後、軍需企業マーティン・マリエッタで働いた後、彼はNASAに研究提案書を送り、1961年にNASAに招かれ、そこで働くようになった。1965年、ARPAのITPOをアイバン・サザランドから引継ぎ、1966年にARPANET計画を開始した
J・C・R・リックライダーとテイラーは、1968年4月に論文 "The Computer as a Communication Device"(通信装置としてのコンピュータ)を共同執筆して発表した。
1984年、テイラーとバトラー・ランプソン、チャック・サッカーは、「タイムシェアリングの実用的代替となりうる分散パーソナルコンピュータ・システムを実現した Xerox Alto システムの開発を主導したことに対して」 ACM フェロー賞を授与された。1999年、彼は「コンピュータネットワーク、パーソナルコンピュータ、グラフィカルユーザインターフェースなどコンピュータ技術開発の先見的リーダーシップに対して」アメリカ国家技術賞を受賞した。2004年、「世界初の実用的ネットワーク型パーソナルコンピュータの構想・概念化・開発に対して」、テイラーはアラン・ケイ、バトラー・ランプソン、チャック・サッカーと共にチャールズ・スターク・ドレイパー賞を受賞した。(ロバート・テイラー–Wikipedia)

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