夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

ブログはスクラップブック

書評をいくら読んでも知識にはならない

僕のブログは、面白いと思った記事や文章を貼っていく切抜き帳、スクラップブックに似ている。WEBの記事はもちろん、本の文章も多い。最近のエントリーで言えば、「USTREAMがメディアを変える」から読み解くテレビ局の変質、佐々木氏の「キュレーションの時代を」を引用した、「キュレーターにオーバーダイブ」、「社内失業 企業に捨てられた正社員」を引用した「600万人の社内失業者」などだ。

これらは書評ではない。鳥の目・虫の目という考え方で言えば、「虫の目」に近い。「鳥の目」のように、全体を俯瞰的に眺めるように書くことよりも、その本の中のごく一部の言葉に注目して自分の思ったように書いていく。もし、書評を書くとしたら、おそらく「USTREAMがメディアを変える」(小寺信良著/ちくま新書)などは、著者が本の大半で強調しているUSTREAMについて説明するだろう。だが、USTREAMに触れたことのない読者には、どう説明したらよいのか。その説明が書評の大部分になってしまう。それでは、どこかで読んだ書評と似たり寄ったりになってしまうだろう。そんなものは誰も読みたいとは思えない。

3月7日の日経新聞に映画評論家の白井佳夫氏のインタビューが載っていた。インタビュー領空侵犯というコラムで「芸術鑑賞は人に頼るな」という記事である。白井氏は、こう言う。

「展覧会の図録を読んだり、パンフレットの解説・批評を事前に入念に読んだりした後で、絵や音楽や舞台を鑑賞しようとする人が増えています。評論家や解説者の目に従って鑑賞する。文学でも同じで、私の好きな作家、ヘミングウェイの全集を、近ごろは巻末の解説に従って読み始める人が多いと聞いてショックを受けました。」

何の予備知識もなく作品と相対して好き嫌いを自分なりに感じとることが芸術鑑賞のあるべき姿では。評論家の意見に頼っていると、それが習い性となって自分の意見がなくなってしまいかねません。それでは永遠に自分の目で芸術の神髄に触れられるようにならないでしょう」(日経新聞3月7日インタビュー領空侵犯「芸術鑑賞は人に頼るな」)

白井氏は、その原因について
「幼稚園児に人の顔を描かせると、ピカソ顔負けの、目が一つしかない顔を大胆に描く子が大勢います。ところが、大人になるに従って、ありきたりの人の顔しか描けなくなってしまう。突出を嫌う“常識的教養主義”ともいうべきものに染まっていき、自己検閲が働くようになるからでしょう。学校教育からカルチャー教室の講座までが、それを押し付ける。その結果、ものの見方の多様性がすっかり失われてしまうのです」


「背景としては受験制度など様々な要因が想定できますが、常識的教養主義の一翼を担っているという点では、プロの評論家やその言説を伝えるメディアにも責任の一端がないとは言えないでしょう」(日経新聞3月7日インタビュー領空侵犯「芸術鑑賞は人に頼るな」)

ブログにおいても書評を参考に本を手に取るというプラス面もあるが、そのことが「評論家や解説者の目に従って鑑賞する」というマイナス面にならないか。もちろん、書評家の傾向もあるが、二、三百ページの本を短文で紹介するのはもともと無理なのだ。僕は、むしろ、この文章だけは読んでほしいという思いで書いている。僕は、「ジャーナリズムはマスメディアの特権ではない」のコメントでこう書いている。
僕のブログエントリーの特徴は、何年たっても古くない記事を書くことと、優れた文章を伝えることだと思います。したがって、今回のように、絶版で現在、誰も読めない記事であれば、伝える価値があると思うのです。これも、ジャーナリストの責務である「いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う」ことに繫がるのではないでしょうか。知識は、こうやって未来に伝えていくことでもあります。(ジャーナリズムはマスメディアの特権ではない・コメント)
ニュースは一過性である。毎日、新たなニュースが登場する。だが、その中でいつ読んでも古くならない永遠なブログとは何か。すぐれた作品や文章は、きっと古くならないに違いない。文章を引用するということで、それは自分の文章じゃないから、他人の文章だからということで自分らしいオリジナルな文章を書けというものもいる。だが、オリジナルな視点というものがあるはずだ。その本の中で、自分の中できらりと光るもの、これは白井氏の言う「何の予備知識もなく作品と相対して好き嫌いを自分なりに感じとることが芸術鑑賞のあるべき姿」ではないのか。このオリジナルな視点を佐々木氏は「視座」と表現する。「キュレーターにオーバーダイブ」でも、
視座にチェックインし、視座を得るという行為。これはあなた自身の視座とはつねにずれ、小さな差異を生じ続けています。「あなたが求めている情報」と「チェックされた視座が求めている情報」は微妙に異なっていて、そのズレは収集された情報につねにノイズをもたらすことになります。
そしてこのノイズこそが、セレンディピティを生み出すわけです。
あなたが期待していなかった情報が、その「ズレ」の中に宝物のように埋まっている可能性があるということなのです。(佐々木俊尚著「キュレーションの時代」ちくま新書P196-199)
ブログを書き続けることで、過去のエントリーと共鳴し、新たなブログが書ける。これが、僕のブログの醍醐味でもある。

書き写す大切さ

インターネットが普及して、かなりの知識を即座に手に入れることができるようになった。コピペが簡単にできる時代に、わざわざ本や新聞から書き写す意味は何か。

教師と生徒、一番物を覚えるのに適しているのはどちらか。僕は、教師だと思う。人間は、目で読み、手で書き写し、口で話す。教師は、この三種類の動作をこなす。生徒は、目と手ぐらいなものだ。社会人になって、本を読むことぐらいはするだろうが、書き写すことまでしないだろう。だが、書き写す作業がなければ、知識として残らないのである。

印刷技術が、発明される以前、一番頭がいいのは、僧侶とされた。彼らは、写経によって、経文を写してきたのだ。聖書もまた、代々の僧侶たちが聖書を書き写すのが仕事だった。「隠居を見直す時代」で、学校や病院が教会から生まれたことを書いた。そして、

当然、教会が病院を兼ねており、いわば出産・教育・結婚式・病院・葬式と人々が教会と離れられなかった点を見過ごすことはできない。つまり、キリスト教が欧米で広まった理由は、このような面が強いと思われる。

日本においても江戸時代、寺子屋が生まれ、寺の僧侶を中心に子供たちを教えたのも一番知識を持っているのが僧侶だったからだ。現在では、僧侶の地位が相対的に落ち、生臭坊主ばかりになったり、葬式仏教と呼ばれたりで、かつての面影もないが。(隠居を見直す時代)

僕は、この書き写す作業を通して、確実に自分の知識を頭に入れる。スクラップブックは、コントのネタ帳と同じで普通は公開はしない。だが、僕は、その過程も公開してしまおうとしている。「私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。」というブログでは、
編集者はネタ元を明かさない。キュレーターは引用元を明示する。

「情報ソースの秘匿は編集者の義務であり、責任である」そんな言葉を何度か聞いたことがあります。編集者にとって、ネタ元は財産であり、あまり積極的に開示しない傾向があるように思います。実際は孫引き記事なども多いのですが・・・。一方キュレーターは、一次情報に価値を置いていないので、引用元があるならば、積極的に明示します。きちんとサイトリンクまですることが作法となっています。(私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。)

と書いている。僕は、そんな面倒なことはしたくない。二つに建て分けたところで、どっちがどっちかわからなくなってしまう。だったら、スクラップブックに放り込んでしまおうというわけだ。そして、何日か経つと、過去のエントリーを読み返し、また新たなセレンディピティを生み出し、新たなエントリーが書かれることになる。
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