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素人だから言えることもある

希望のない国から希望の国へ

マスコミはなぜ不安をあおるのか

僕は「メディアが不安をあおる理由」で、「リスクのモノサシ」(中谷内一也著・NHKブックス)の言葉を引用している。
マスメディアの報道スタイルのうち、人々の不安を高める原因の一つとしてあげられるのが、幅広いリスク評価の中でもっとも深刻なものを強調し、穏当なものにはあまり注意を向けないという傾向である。

(中略)

というのは、被害予測を小さく伝えておいて実際に大きな被害が発生してしまった場合は、被害者が出たがゆえに見通しの甘さを叩かれるが、逆に、大きな被害予測を強調しておいて実際の犠牲者が少なかったときには、「あれは警告として意義があった。犠牲者が少なくてよかった」と、見通しの誤りを正当化しやすいからである。(中谷内一也著「リスクのモノサシ」NHKブックス)

何局も一斉に、同じ情報を横並びに伝えていると、不安の競争になってしまう。それだったら、地域別に局を分けるか、ジャンルを分けるとか、より効率的に考えるべきなのだが、放送局同士で語り合おうとしない。典型的なのは、この震災のネーミングである。気象庁は、すでに「東北地方太平洋沖地震」と決定している。
東北関東大震災」:NHK
東日本大震災」:朝日新聞・時事通信社ウェザーニューズのほか共同通信社と産経新聞・フジテレビ・毎日新聞]・東京新聞中日新聞・TBS]など共同加盟社
東北・関東大地震」:共同通信社東京新聞中日新聞など加盟社が地震当日のみ使用。
東日本巨大地震」:読売新聞・日本経済新聞・テレビ朝日
東日本大地震」:日本テレビ・TOKYO FM・テレビ朝日・BS11デジタル
などとなっている。また、仙台市に本社を置く河北新報社では共同通信社が使用している「東日本大震災」と併用する形で「3・11大震災」の名称を使用することを3月14日に表明した。(2011年東北地方太平洋沖地震-Wikipedia)
いかにマスコミが発達しているように見えても、官僚と同じ縦割り組織であることがそこに見えている。

なぜ希望だけがないのか

実は、マスコミだけではない、この国の会社、学校、生活、すべてが縦割りなのだ。僕は、「この国には希望だけがない」で村上龍氏の「希望の国のエクソダス」の言葉を引用している。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」(「希望の国のエクソダス」村上龍著/文藝春秋)
なぜ、希望だけがないのか。それは次の箇所からうかがえる。
「なぜここに君がいるんだ?」
「この先の谷には数万発の地雷が埋まっていて、誰かが除去する必要がある、われわれの部族はそれをやっている」
「日本が恋しくはないか?」
「日本のことはもう忘れた」
「忘れた? どうして?」
「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」
「この土地には何があるんだ?」
すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある、われわれには敵はいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」(「希望の国のエクソダス」村上龍著/文藝春秋)
希望というものは、物の豊かさではなく、人のつながりであることがわかる。今回の地震も、縦割りではなく、横の人間的なつながりを見直すきっかけにならなくてはならないだろう。

希望学を見直す

そこで、最近、僕は「希望学」に注目している。イチローと「希望学」で、
幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」。「安心には結果が必要とされるが、希望には模索のプロセスこそが必要」。そこからは幸福や安心と異なる、希望の特性が見えてくる。
ところでそもそも希望とは、何なのだろうか。思想研究を重ねるうち、希望に関する一つの社会的定義が浮かび上がった。希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だと。
村上龍氏の『希望の国のエクソダス』の有名なフレーズである「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という指摘以来、日本イコール希望のない社会という認識は、なかば常識化した。社会やそれを構成する個人に希望がないとすれば、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けている。(希望学とは)
僕は、この東京大学社会科学研究所教授の玄田有史氏が書いた「希望学」(玄田有史編著/中公新書ラクレ) から、特に次の箇所に注目した。
希望があると語る人には、自分には友達が多いという認識を強く持っている場合が多い。友達が少ないと答えた人に比べると、友達が多いと答える人は、希望があると答える確率がおよそ3割高くなっていた。友人という自分にとっての身近な社会の存在が、希望の自負に影響をしている。友達が少ないと自己認識している人は、希望も持ちにくいのだ。

友達の存在はどのようなプロセスで希望に影響を与えるのだろうか。その詳細な道すじは、今のところ、まだわからない。ただ、友達という自分にとっての他者の存在が、希望を発見するための重要な情報源になっている可能性は高い。なかでも社会学者のグラノヴェクーが「ウィークタイズ」と表現したような自分と違う世界に生き、自分と違う価値観や経験を持っている友だちからは、自分の頭で考えるだけで得られなかった様々な多くの情報が得られたりするものだ(『転職』1998年)。友人・知人と希望の関係は、希望学のなかでこれから深く追求していきたいテーマだ。

もう一つの希望に大きな影響を与える背景は、家族の記憶だ。子どもの頃、自分は家族から期待されていたという記憶がある人ほど、希望を持って生きている人が多くなっていた。親や家族からの進学や就職への期待がプレッシャーとなって、将来に思い悩み、希望を失ってしまうといった事例も多いのではないかといわれたりもする。しかし、データが語る事実は、逆だ。むしろ家族から期待されたという過去の記憶を持っていない人は、未来への希望も見出しにくい状況が起こっている。

さらに期待以外にも家族から受けた愛情の記憶も、間接的に希望に影響している可能性がある。当初私たちのなかには、経済的に余裕がなかったり、愛情に恵まれなかった家庭に育ってきた人ほど、未来に希望を持っていないのではないかという、うっすらとした予感があった。しかし、今回のデータが、生まれ育った家庭の経済力によって希望の有無に影響があるという直接的な証拠を示すことはなかった。

同様に家族からの愛情を受けてきたと感じる人ほど、希望があると語る傾向も見出せなかった。だが、家族からの愛情の記憶は、希望発見の別のルートを作り出す。家族からの愛情を受けてきた人のなかには、自分には協調性があるという認識を持っている場合が多い。育まれた協調性は、より多くの友だちを持てる個人を創る。そしてその友だちの多さが、希望の発見をもたらすのだ。その意味で、家族から受けた愛情の記憶は、間接的にではあるが、希望につながっている。(玄田有史編著「希望学」中公新書ラクレ)( 家族の期待は、子供の人生を変える)

つまり、友達が多い人、家族から期待されている人、そしてウィークタイズがある人に希望を持つ人が多いという結果である。

ネットのつながりはウィークタイズ

友達が少ない人、家族がない人は希望がなくてもいいのか。そうではない。むしろ、インターネットによって「ウィークタイズ」が構築できるのではないか。そもそもウィークタイズとは、
弱い紐帯ウィーク・タイズとも.グラノヴェッターがネットワーク分析の過程で見い出した知見.身近でなく,やや疎遠,もしくは日頃はそれほどの交流のない人々との絆のことを指す.

そのような人々は日頃の付き合いの弱さという点で弱い絆と呼ばれる.しかし,自分にとって身近にない存在であるが故に,身近な絆の範囲にはない,より異質な情報を持った存在である.

ラノヴェッターのアメリカでの研究では,転職の際に「弱い絆」からの情報で転職を行った方がより転職への満足度が高い,などの結果が見られている.自分にとって身近にない存在であるが故に,身近な絆の範囲にはない,これまでに得られなかった異質で新しい情報が得られるため,と説明されている.(弱い絆とは)

マスコミの縦割りの一方的な関係ではなく、顔を合わせたこともない人のブログやツィッターで全く新しい希望を見出すことができる、そんな横のつながりがインターネットに向いているようだ。

思い出すのは、サミュエル・ウルマンの「青春」の詩である。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月
の如く人を老いさせ、 精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。


年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する、欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の
如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。


人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる。
人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる。
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。


大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。 (岡田義夫訳)(青春)

人は不安とともに老い、希望とともに若返る。だが、マスコミと違って、ネットは一方的にウィークタイズを与えてくれない。自ら望み、学ぼうとしなければならないのである。

追記 佐々木俊尚氏からツィートをいただいた。

われわれが20年間失ってきた、そして今再び取り戻しつつある「希望」について。/希望のない国から希望の国へ http://t.co/O1L8HrP
(http://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/48663836332539904)
また、村上龍氏は、ニューヨークタイムズに寄稿したという。
私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には全てある。欲しいものは全て手に入る。ここにないのは、希望だけだ」と。

今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。


だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。(危機的状況の中の希望)

人間は、危機的状況にならないと学ばないものらしい。生き残った我々は、インターネットによって「希望」を見出していかなければならない。
「みんなが考えているよりずっとたくさんの『幸福』が世の中にはあるのに、たいていの人はそれを見つけないのですよ(メーテルリンク「青い鳥」新潮文庫 ) 」(悲観論からは何も生まれない)

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