夢幻∞大のドリーミングメディア

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JBPRESSの「被災地の美談記事の作り方、教えます」によると、震災報道がいずれもパターン化されているという。新聞報道では、「本記」「雑感」「解説」が主なものだが、「本記」や「解説」はどうしたって、似たようなものになる。当然、一番、バラエティーに富んでいるのが、現場を扱った記者の取材記事「雑感」である。ところが、ほとんどがそれがパターン化されているという。

(1)家族、家、大切な品などを喪失する痛み
(2)生存者の美談。希少な可能性の実現(生存、再会など) 
(3)非日常生活の苦労、窮乏、欠如 
(4)破壊の惨状。被害の大きさ。自然の破壊力の大きさ
(5)救援者や救出者など「解決者」の活躍 
(6)行政、公的サービスの努力
(7)逆境に耐えて生き残ったもの
(8)応援、支援。応援する歌を披露した。高校野球で東北のチームを応援した、など
(9)復興、再生、回復
(10)そのほか(被災地の美談記事の作り方、教えます)
であり、内容的にも
家族愛=兄弟姉妹、親子、夫婦、祖父母、孫、祖先・子孫
勇気または勇猛=警察官、自衛官、消防士、医師、看護師、物資運搬者など
友情=学校、級友、スポーツのチーム仲間など
団結または結束=職場、ご近所、宗教などのコミュニティー、地縁
誠実または正直
復帰
忍耐
努力=スポーツ、学業、仕事など「日常」の堅持。高校野球に出場した選手に震災復興の覚悟を語らせる手法など(被災地の美談記事の作り方、教えます)
わかりやすいといえばその通りだが、なんだかよくできた試験問題の答案を見せられているような気がする。おそらく、テレビ記者にしても、新聞記者にしても、マスコミ志望といえばすごく厳しい合格率である。しかし、どれを見てもこんな記事ばかりであれば、食傷気味になるのもうなづける。

個性的な記事は、こんなところにないのではないか。僕は、「ジャーナリズムはマスメディアの特権ではない」でこんな言葉を引用した。

しかも、どうやらいまのジャーナリズムでは、そのような小器用で要領のいいジャーナリストが有能で優秀な記者として珍重されているように思える。そういう記者が増えてきているように思える。しかし、ほんとうに「事実」を取材しようとするなら、その取材方法はもっと不器用で、ねちっこいものなのではないだろうか
このごろの新聞はどれを見ても同じだ、という意見がある。実際に読み比べれば、事態の解釈や論調、あるいは報道にかなりの差はあるのだが、大方の読者にとってそれは微差にしかすぎず、大要においてはほとんど変わりないと映るのも当然かもしれない。どの新聞も大同小異だということは、新聞にスクープが少なくなったということだ。(新井直之著「ジャーナリズム いま何が問われているか」P73/東洋経済新報社)( ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6) )
本当にジャーナリストがこれで良しとするなら、彼らはジャーナリストとしての本分を忘れていることになる。
民主主義の世の中といいながら、ニュース・ジャーナリズムの上では、政治権力や資本が圧倒的な主流となっており、民衆の行動や意見にほとんど取材陣が振り向けられていないのである。民衆の行動や意見や生活を伝えるニュースは、ほぼ完全にスクープになる。しかも今日では、大状況の動きと民衆一人ひとりの日常生活とは地下茎のように錯綜しながら結び合っているのであり、民衆を掘って行くことによって状況の動きに突き当たることが多いのである。(新井直之著「ジャーナリズム いま何が問われているか」P73/東洋経済新報社)( ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6) )
だが、そのような民衆の中に入ってねちっこい記事を書くよりも、美談のパターンに合わせて記事を書くほうが、記者にとって一丁上がりとなって、マスコミの出世街道となってしまっている現実がそこにある。「被災地の美談記事の作り方、教えます」の著者烏賀陽 弘道氏は、
こういうクライシスの時には、全員が同じ方向に走り出してはいけないのだ。「オレは違う方向に走る」「私は踏みとどまる」という多様性がなければ、報道の多様性は窒息してしまう。日本の報道には、これが致命的に欠けている。
そんなに難しい作業ではない。「他社がPでいくなら、うちはQの方針でいく」「ほかの編集部がYなら、うちの取材はZでいく」という「流れに逆らう勇気」と「他人の真似をしない発想」さえあればよいのだ。(被災地の美談記事の作り方、教えます)
このように、日本のマスメディアが30年間進歩していないのに対して、今回の「東日本大震災」の被災者たちは、そのマスメディアを自分たちの道具として活用しようとしているようだ。

阪神・淡路大震災のころに比べて、被災者が積極的にテレビの前に立とうとしている現実がある。今回、ケータイやインターネットが、中継局ごと大津波で流されたために、なかなか情報がつながらなかった。しかし、それなら、積極的にマスメディアを伝言板代わりにして顔を出していた。これは、阪神大震災のころに比べて、よりソーシャルメディアに触れていた年代が多かったことを意味しているのではないだろうか。

一方、マスメディアは伝えることは得意でも、人と人をつなぐことは苦手なようだ。ソーシャルメディアがきめ細かい支援物資の流通を可能にするのに対し、テレビ局の入らない避難所の情報がなかなか入らず、支援物資のミスマッチが起こっているのがそれを意味している。

というのは、現代ビジネス「『災害時に必要とされるキュレーション・メディア』にこんな記事が載っていたからだ。

では、私たちはどのような情報を信じればいいのでしょうか?
『キュレーションの時代〜「つながり」の情報革命が始まる』の著者でもある佐々木俊尚氏は3月15日のツイートで、以下のように発言されています。

メディアリテラシーの低い家族や親戚に自分がキュレーターとなって非マスメディア情報を配信して上げる、という災害時の小さなキュレーション活動が必要なんじゃないかと思う。」(『災害時に必要とされるキュレーション・メディア』)

今回、NHKの教育テレビも全面、伝言板化されていたが、ソーシャルメディアの本質は、伝言板として必要な人に必要な情報がつながることであった。マスメディアのように、よいことも悪いことも一方的に伝えることよりも、つなぐことに特化したソーシャルメディアが初めて試された震災の始まりだったのだ。
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