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素人だから言えることもある

現実がひっくり返る年・前期

2011年も5月になった。1月10日に[お題]大予想「現実がひっくり返る年」というエントリーを書いて、僕は2011年は「現実がひっくり返る年」と書いた。その中で、

別にテロや戦争で、世の中をひっくり返すべきだというのではない。「現実」という字の中に、ちゃんと「実現」という言葉が隠れているのだ。ところが、私たちは、現実は決して変わらないと思い込んでいる。今、インターネットが普及して、変わらないと思っていた現実がどんどん崩壊しつつある。「現実」はこんなものと思い込んでいた人たちは、本当は「現実」が何であったかを真剣に考えてこなかったのではないか。
と書いた。人間は、昨日の延長は今日、今日の延長は明日と同じように進むと思い込んでいる。何かを実現したいと思っていても、現実は変わらないと思っている限り、実現は難しい。だが、今年は世界的に現実がひっくり返る年なのだ。未来を知らない我々には、来るべき現実がどのようになるかを知らないが。

さて、1年を4か月ごとに分けると、1〜4月は前期、5〜8月は中期、9〜12月は後期となる。したがって、今回は、前期としてこの4か月間を振り返ってみたい。前期には45本のエントリーを書いている。

(1)ネットとマスメディアの逆転現象

1月13日に書いた「菅首相も小沢氏も橋下知事も秋葉市長もみんなネット」では、政治家がネットに続々登場する事態について、
マスメディアが編集によって特定のアングルから報道していることが暴かれてしまった現在、「客観報道」なる神話は崩壊したが、このことはネットメディアがより客観的であることをもちろん意味せず、むしろ発信者のアングルがよりはっきり出るメディアだと思った方がよいhttp://twitter.com/#!/ttakimoto/status/29694183370
という瀧本哲史氏のツィートを引用した。これはまた、尖閣諸島のネット流出問題で、人々がマスメディアから離れつつあることを描いた昨年11月の「ネットメディアが国家を翻弄する意味を考える」からのつながりであった。そのエントリーに対して、佐々木俊尚氏は、
ネットが優れているのは発信者にバイアスがあっても、そのバイアスが可視化されていて、情報を受け取る際に「バイアス織り込み済み」で受容できること。/ネットメディアが国家を翻弄する http://t.co/RbG6xuU

http://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/1852064263053312

とツイートした。この日本国内のネット逆転現象は、海外でも加速し、中東の混乱を引き起こした。それが2月19日に書いた「中東の反政府デモは、「現実がひっくり返る年」の始まり」であった。そこで、僕はこう書いている。
多くの独裁国家が恐れているのは、国民がメディアを握ることだ。軍事クーデターが、最初に新聞社やテレビ局を狙うのもそのためである。ところが、インターネットにより、国民が自由に発信できるメディアを握った現在、独裁政治そのものが成り立たなくなってしまう。

(2)国内に募る閉塞感

ネットが拡大する一方、その現実がどんどん閉塞感を増しつつある。例えば、30代の70万人のひきこもりと相撲の八百長問題を取り扱った「不信の時代」と社内失業者問題を扱った「600万人の社内失業者」である。

ひきこもりと社内失業者の特徴は、どちらも外見から見えない点である。僕は、「600万人の社内失業者」でこう書いている。

いずれも、「家の恥」「会社の恥」として隠していることである。どちらも、孤立している点で、表面化しにくい。しかし、600万人という数はあまりにも多い。したがって、その事実を見つめ、人と人のつながりが、孤立を救う唯一のチャンスである。

(中略)

PCがあることで、その人の業務が傍からわからなくなった。縦割りになることで、隣の部署がどんな業務をしているかわからない。派遣社員や嘱託社員も入れ代わり立ち代わり入ってくる。それぞれの社員は企業を代表しているつもりで仕事をしているが、孤立化を進めた結果、結局、企業全体が他人の集まりにすぎなくなったのかもしれない。

集団で働いても、引きこもりでも、人々はどんどん無縁化を始めている実態がそこにある。

(3)東日本大震災と漂流する日本人

3月11日に起きた東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)は、何もかも「想定外」だった。電気がなくなれば、ライフラインはおろか、通信すらできなくなる。いくらネットが被災地を救うのだと言われても、実情は、電気なければただのハコだった。そして、それは遠く離れた東京でも状況は同じだった。(参照大東京、電気なければタダのハコ? )

大津波の映像を見るたびに漂流する日本人を思い描いた。僕は、「想定外の事態(現実がひっくり返る年・2) 」で、「[お題]ガラパゴスかパラダイス鎖国か」以来、日本沈没を取り上げている。そもそも、日本沈没については、「ケータイホームレス・さまよえる日本人論(3)」などで取り上げて以来なので、3年ぶりであった。しかし、今回の津波の映像はあまりにもイメージに合致しすぎた。僕は、「想定外の事態(現実がひっくり返る年・2) 」で、こう書いている。

日本列島の形を一匹の竜にたとえ、われわれ日本人は世界に漂流する竜の子供とたとえている。たとえ、日本国内に住んでいても、日本人一人一人が「想定外の事態」に向き合わなければならなくなった時、はじめて「現実がひっくり返る年」となる。
私たち、今までは困ったときにはプロに任せればいいやと思っていた。一人一人が現実に立ち向かってこなかったのかもしれない。だが、そのプロにもできない「想定外の事態」がある。たとえ、素人でも、それに立ち向かう勇気を持った時こそ、「現実をひっくり返す」ことができるのだ。それはまた、家屋という帰るべき母親から切り離された「日本人の漂流」を示しているのかもしれない。

(4)希望と精神論

東日本大震災以来、テレビ画面は一変した。CMは「ACジャパン」だけ。僕は、「ACジャパンという穴埋めCM」を書き、次のエントリーは「希望のない国から希望の国へ」だった。この希望のテーマは、実は翼の管理人の「癒しの記事エントリをお願いします。」からきている。
先ず、今回の地震でお亡くなりになった方のご冥福をお祈り致すと共に、被災された方の無事を祈念しております。
私も含めて、地震の事後処理の忙殺されて、記事エントリが滞っておりますが、こんな時にこそ「癒しの記事エントリ」で読者の方に希望を分けてあげて下さい。
地震の影響がなかった場所のBNTブロガーさんに、特にお願い致すところです。
どうしても批判的な記事が多かった僕としても、「希望」というテーマは考えていた部分もあった。そして、その希望は、個人個人で役割が違うはずだ。それを、急に増えてきた「がんばろう」とか「つながろう」とかいうキャンペーに後押しされると、違和感を覚えてきたので書いたのが、「精神論はやめよう」シリーズだった。5本目の「なぜ、歴史の変わり時は精神論がはやるか(精神論はやめよう・5)」でこう書いている。
「日本人は強い」「ひとつになろう」という単なるキャッチフレーズの裏に、どこか「日本人はこうでなければならない」という「精神論」が覗いているのだ。それは、結局、政治に都合よく「生かされている」のではないのか。たとえ、現実はそうであっても、僕は僕自身で「生きている」と思いたいのだ。
もちろん、控えめな日本人だから、キャンペーンをやらなければ動かないと思っている人もいるだろう。だが、キャンペーンをやって希望がわくだろうか。僕は、「希望のない国から希望の国へ」でこう書いた。
希望というものは、物の豊かさではなく、人のつながりであることがわかる。今回の地震も、縦割りではなく、横の人間的なつながりを見直すきっかけにならなくてはならないだろう。
ところが、マスコミを使っての精神論は、縦割り組織を使った強制にしか取れないのである。

(5)抜き書きシリーズをなぜ書いたか

抜き書き・マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」(1) をはじめとするテレビの番組を文字に書き起こすシリーズをなぜ書くか。テレビというのは、イメージに訴える力は強いのに、対談や演説などあまり変わり映えのないものはよほど聞いている人間が構えて聞かないとたちまち聞き逃してしまう。また、YouTubeを並べても、それは同じである。対談こそ、文章に書き起こして初めてわかるのではないだろうか。このエントリーでも、
NHKの文字起こしをご紹介、TVと文字では感じ方が変わる気がします。⇒抜き書き・マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」 http://bit.ly/kjRt0Y
というツイートがあった。

また論評抜きということは、ある意味、ブログの形を崩すことでもある。また、これが本やネットニュースの引用とは違うので、そのまま引用記事だというのもおかしなものだ。かといって、NHKにお伺いを立ててというのも、別にYouTubeを並べたわけではないし、視聴者が聞いたものを正確に書き留めただけだから、問題はないのではないかということで、素材をそのまま差し出し、情報共有に役立てていただきたいという思いがある。

僕は、自分のブログをデータベースにしたいと思っている。ただ、資料として、自宅のビデオに眠らせたり、資料のコピーをノートに貼り付けたところで、検索ができるわけではない。それなら、いっそ、その時読んだ本の興味深かったところ、興味深かった対談をブログの形にして読者に提供する、これこそが本当の情報共有になるのではないかと思ってブログを書いているのだ。

(6)前期が終わって

改めて思うのは、確実に世界規模で現実が変わりつつあるということだ。震災後、東北各地は、復旧・復興に向かうだろうが、これらは過去の延長ではないだろう。過去のように、いくらでも電気が使い放題ではないのだから。かつてサービス残業なんて言う過労死を増やす生き方は減っていくだろう。だが、ますますパイは小さくなり、国内企業が海外に逃げるかもしれない。労働条件はさらに狭き門となるかもしれない。それは、新たな世界の幕開けになるかもしれない。だが、それはまだ見えていない。中期・後期ではさらにダイナミックな変動が起こるかもしれないのだ。
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