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素人だから言えることもある

サイバーストーカー

サイバーレブリティー

今日、テレビ東京で「CSI:マイアミ6」のシリーズで「サイバーストーカー」なる海外ドラマがあった。ホームページの解説によれば
高校の水泳部員キャンダスは、ネットに投稿された一枚の写真によって一夜にしてセレブになる。以来二週間、キャンダスはどこへ行ってもファンに囲まれていたが、水泳大会のプールサイドで事件が起きる。キャンダスのボーイフレンドのルーク・サリアンが弓矢で殺されたのだ。現場には人が大勢いたが、皆キャンダスに注目しており犯人を見た者はいなかった。キャンダスの身を案じたホレイショは、彼女のボディガードにウルフを雇う。(CSI:マイアミ6テレビ東京)
原題は「Cyber-lebrity」となっている。「CSI:マイアミ エピソードガイド」によれば、
タイトルのサイバーレブリティーとは、サイバーとセレブリティーを合わせた造語です。分かりやすいようにネットアイドルと訳しましたが、キャンディスの場合は自らアイドルを名乗っているのではなく、勝手にネット上に写真を載せられ、ストーカーのような野次馬たちに追いかけられて迷惑している感じ。
とある。ただ、セレブと言えば、金持ちのイメージがあるが、
基本的には有名人のことを指す。しかし、大衆向け雑誌や大衆向けテレビ番組では、有名人でかつお金持ちのことを指す傾向がある。このような雑誌や番組では、王族、大富豪、政治家、芸術家、ミュージシャン、作家、ファッションデザイナー、俳優、スポーツ選手、スーパーモデルなどがセレブリティとして繰り返し取り上げられている。大富豪若しくは名門の出だが社会的には知られていない人達は、セレブリティとは呼ばれない。インターネット・セレブリティやユーチューブ・セレブリティと呼ばれる人たちの中には貧乏な者も居ることから分かるように、貧乏でもセレブリティと呼ばれる。また、有名な犯罪者の形容としても、この語が使われているのを見ることができる。(セレブリティ-Wikipedia)
このドラマの中で、ビデオカメラ付きのサングラスが登場する。キャンダスのビデオを撮ったブロガーが、キャンダスのボーイフレンドのサングラスをそのビデオカメラ付きのサングラスに差し替えてしまったのだ。そこで、ビデオカメラ付きサングラスを検索してみた。

カメラ・サングラス

など、いくらでも出てくる。もちろん、個人的に使うのなら違法ではない。だが、違法にアップされた写真がいくらでもある。ドラマの中で、こんなセリフが出て来る。

彼女に入れ込んでるファンが大勢いるの。検索したら25万がヒット。肖像権は完全に無視されたって感じ。
法律は味方じゃない。ネットじゃ今のところ、写された本人じゃなく、撮影した方にあるからね。(「CSI:マイアミ6サイバーストーカー」)
このようにして、サイバーストーカーによるサイバーレブリティーがどんどん出現しているのである。もちろん、法律を守ってきちんと削除しているサイトもあるが、あまりにもサイバーストーカーが多いので、とても手が回らないというのが現状であろう。

誰も守ってくれない

この大勢のサイバーストーカーについて、同じようなシーンを見た覚えがある。それは映画「誰も守ってくれない」である。主人公は、ある殺人犯の妹とそれを守る刑事。僕は、「正義を振りかざすもの」で、監督の君塚良一氏の言葉を引用している。
この映画は殺人犯の妹を守る刑事の話です。物語の中では今現在、この社会の抱えている矛盾がいくつか描かれます。未成年が犯す犯罪、家族という絆の崩壊。個を切り捨てる組織、誰彼なく糾弾するマスコミ。暴走を始めたネット。匿名性の恐ろしさ。社会に晒される個人。それは現代の悪意とも呼べるものです。(「誰も守ってくれない」プログラムより)
糾弾する立場は楽だ。あらゆる情報をネットから手に入れ、正義の名のもとにひけらかす。
正義って胸に秘めておくものだったんですね。いまはみんなそれぞれが孤立してしまって、孤立をうめる方法もなくて、誰を攻撃していいか、信じていいかわからないときに、おそらく別のアイコンとして正義という言葉が出てきたと思う。かつての“正義の名の下に”という言葉の“正義”じゃない。正義という言葉を使って攻撃することで一体感を得たり、自分が生きている証を作ろうとしている。孤立を解消するための言葉にすぎないし、ねじれているし、間違っていると思う。それは正義じゃないよ………。正義はそれぞれが胸に秘めておくべきものだと、僕は今でも信じています。(「誰も守ってくれない」プログラムより)
これは、ドラマ「サイバーストーカー」でも同じことだ。いつの間にか、人間としてのモラルは消え、相手のプライバシーを追いかけることだけに熱中する。

神戸大学工学部の森井昌克教授は、こういう。

現実の社会では、一時、一箇所に数多くの人を集めることは非常に困難です。ネットワーク社会ではそれが可能であり、時間と距離が圧縮されていることから、現実の社会以上に集団意識の大暴走が起こり得るのです。

集団意識とは、共同体の大多数の共通意識のことです。現実の社会では、無名の個人が有名になるまでには、長い時間もしくは広い空間(地域)に影響を及ぼす力(パワー)が必要でした。

20世紀の産業革命は交通手段の発達を促し、広い空間の中の意識を左右できる可能性を生み出しました。特に20世紀後半の放送という手段はそれを顕著にしたわけです。

ネットワーク社会では、その究極な形を現実化しています。一瞬にして多くの個人の意識に問いかけることが可能となったのです。

集団意識の暴走はプライバシーの在り方をも変えようとしています。「プライバシーを暴く」という言葉があるように、プライバシーとは私生活そのものであり、「暴く」という積極的な行為を行わなければ侵されることはなかったのです。

ネットワーク社会では、この敷居が下がり、暴くと言う積極的な行為がなくとも個人のプライバシーを露呈することが可能になりました。現実の社会での、プライバシーを侵されないという受動的な姿勢から、プライバシーを守ると言う積極的な姿勢がネットワーク社会では要求されるのです。(「森井教授のインターネット講座」)( [みんなの回答]ストリート・ビューとプライバシーの終焉)

ネット時代にはすべての人が「サイバーストーカー」になりうるし、「サイバーレブリティー」になりうる。また、自分のプライバシーは自分で守るしかない。その点で「誰も守ってくれない」ということだ。Googleの元CEOのエリック・シュミット氏が、
同氏は「人々は、記録が残る世界で生活しているということについて、今よりもはるかに注意深くなるだろう」と述べた。いたるところにカメラがある、ということにも気を配る必要があるだろう。 Schmidt 氏は「常に、何らかの形でメディアに露出していることになる。誰もが携帯電話を持つようになり、携帯電話にはカメラがついているわけだから、誰もがカメラを持っているということになる。誰もがデジタル写真のカメラマンなのだ」と説明した。(グーグル CEO 、新メディアとその政治的影響を語る)(グーグルの語る地球監視社会)
といった時代になってきたのである。
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