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素人だから言えることもある

すべてが無責任になってしまう国(トップが馬鹿だから・2)

責任が明確でない国

現場の東電の吉田所長が海水注入を停止しなかったことで、処分すべきでないという意見が沸き起こっている。
注水継続の吉田所長、処分も検討…東電副社長

東京電力の武藤栄副社長は26日午後の記者会見で、福島第一原子力発電所1号機の海水注入の一時中断を見送った吉田昌郎所長の処分について、「それも含めて検討する」と述べた。
武藤副社長は、海水注入を継続したことについては「原子炉を冷やすうえで大変正しい判断をした」としたが、「報告の在り方やその後の対処について、これで良かったか検討する必要がある」と述べた。処分の内容、時期については「慎重に考えたい」とした。(2011年5月26日16時49分 読売新聞)

一方、菅首相は、
菅首相、吉田所長の処分必要ないとの認識

【ブリュッセル=遠藤剛】菅首相は28日午前(日本時間28日午後)、ブリュッセルのホテルで記者団と懇談し、福島第一原子力発電所1号機への海水注入を巡る情報の混乱について、「情報が当初正確に伝わらなかったことは、責任を感じている」と述べた。
原発吉田昌郎所長が注水継続を独自に判断したことに関し、「結果としても、注入を続けたことは、間違いでなかった」として、吉田氏の処分は必要ないとの認識を示した
一方、自民、公明両党が共同提出する方針の内閣不信任決議案について、「(民主)党内も一致結束した行動を取ってもらえると信じている」と述べ、与党の反対多数で否決されるとの見通しを示した。
また、「広く(民主党)代表経験者と話す機会があればありがたい」と語り、帰国後、鳩山前首相や小沢一郎民主党元代表らと会談することに意欲を示した。〈関連記事4面〉
(2011年5月29日01時29分 読売新聞)

世論の反応を気にした菅首相らしい判断だが、これでは現場が正しければトップを無視してもよいのかという問題が起こる。思えば海上保安庁尖閣諸島ビデオ流出事故の二の舞である。このときは、流出させた海上保安庁職員は「処分すべきではない」という意見がマスコミ全体で湧き上がったことを覚えていよう。

僕は、ネットメディアが国家を翻弄する意味を考えるでは、当の流した人がマスメディアではなく、ネットを選んだ理由を考えたが、今回は純粋に日本の組織について考えてみたい。

hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)のブログ「典型的な日本型システムの問題点」によれば、木村幹氏のツィッターを引用して、こう斬り込んでいる。

つまり、「トップが無能だから」という理由での現場の暴走は、結果としてその「無能なトップ」を守る役割を果たすことになる。「ずるいトップ」なら、そういう「暴走したい現場」を利用して、自らの地位を守ってしまうだろう。そして、それはひょっとすると、「今」起こっていることかも知れない。

例えば、こんなことを考えてみる。官邸は海水注入について混乱した議論をしており、他方、現場は継続を主張している。官邸のいう事を尊重すれば、処理が失敗するかも知れず、そもそも現場がいう事を聞くとも限らない。

官邸に明々白々に反旗を翻せば、その後の支援が受けづらくなるし、何よりも自分たちが責任を一手に被らなければならない。この場合の日本的解決法の一つが、自分達は官邸の意向を汲んで指示を出したが、それが徹底され無かった、というもの。結果さえよければ、誰も泥を被らないで住む。

先の解決方法は、全員の責任をぼやかす事により、失敗のリスクを現場に押し付け、丸く収めようとするもの。更に失敗しても、「現場はベストを尽くした」という言説を上手く乗っければ、失敗しても、リスクを最小限にできる。が、これは本来の解決方法ではないはず。

当然の事ながら、この場合、官邸と現場の間にいる人間のすべき事は、現場の声を最大限、官邸に届ける事。それにより、官邸にベストの判断を行わせると共に、その決定の責任を負わせる。しかし、今の方向は、明らかに、結果がよかったのだから構わないのだ、という方向に向かっている。

最大の問題は、結果オーライなら無問責、の場合には、モラルハザードの問題が起こりやすくなる事。つまり、誰も自分の言葉に責任を取らなくなるし、自らの意見を相手に真剣に伝えようという努力を行わなくなる。

そして、追記として
だからこそ、怖いのです。
はじめは、まさに何も分かっちゃいないトンデモな幹部と、その下で必死に事態をマネージする現場の勇士たち。
無知なくせに権限を振り回すトップの判断ミスの責任を押しつけられ、時に更迭されながら、黙々と自らの任務に邁進する現場の勇士たち。
その構図が紛う事なき現実であるからこそ、
だからこそ、怖いのです。
こんな非常時に組織論を振り回すのか、愚かな!と、誰もが思うようになったとき、組織はもはやその体をなさなくなっています。
それがやがて関東軍を生み出す培養土となっていくのです。
そして、現場に責任を押しつけてきた後ろめたいトップは、暴走する現場にストップをかけるどころか、「以後、国民政府を対手とせず」などと、現場がかえってびっくりするような火に油を注ぐ無責任に突っ走っていきます。(典型的な日本型システムの問題点)
つまり、トップを馬鹿にしているうちに、現場が暴走する。それが当たり前になってしまうと、組織など体をなさなくなってしまう。一番必要なのは、トップは積極的に現場に耳を傾け、現場はトップを納得させる説得力なのではないか。だが、トップは聞き耳を持たないということで、そういう努力をあきらめ、現場は自分の思った通りに暴走する。現場とトップの違いは何か。それは全体を俯瞰する力だ。俯瞰することで、より無駄のない着実な手を打てるのである。その役割の違いを現場とトップが共有していないので、たちまち組織が崩壊してしまうのだ。

これもまた情報共有のミスマッチである。組織が大きくなればなるほど、現場の情報がストレートに伝わらない。直接の会話でも、「可能性がゼロではない」がいつの間にか「危険性あり」に変わったように。組織が巨大化すればするほど、その間に立つ人間はどんどん自分の地位を維持することしか考えない無責任な人間が増えるばかりなのだ。

なぜ、日本のトップは無責任になるか

政治評論家の岩見隆夫氏は、毎日新聞のコラム近聞遠見で2010年5月にこう書いた。
また、小沢はこれまで何人かの政治家を首相候補に仕立て、政争の武器にしてきた。最初に海部俊樹の政権を作った時(89年)は、自民党幹事長の小沢が、「担ぐ御輿(みこし)は、軽くてパーなやつが一番いい」と漏らしたと報じられ、話題になる。海部が人づてに聞いて、直接問いただしたところ、小沢は、「言った覚えはない。書いた記者を呼びつけましょう」 とすごんだ。最近になって、海部はそう語っている。(2010年5月1日毎日新聞 近聞遠見:「最後の潮時」ではないか)
もちろん、小沢氏が「担ぐ御輿(みこし)は、軽くてパーなやつが一番いい」と言ったかどうかはわからないし、わざわざ「言った覚えはない。書いた記者を呼びつけましょう」というのは、言質を取られたくないという彼独特の防御方法だろう。小沢氏のような、ブスっとした人よりも、人好きの良い軽いタイプがいいというのは、ある意味では、毎年首相が変わる日本に向いているのかもしれない。

ところで、日本の首相がどうしてもリーダーシップを発揮できないかについては、福田首相退陣のときに書いた、「あなたとは違うんです」首相の存在感で引用した細川元首相夫人の言葉に明確に表れていると思った。

—— 日本の首相は、ご主人とは別の意味で殿様のようになれませんね。意志を貫き、強いリーダーシップを発揮するような。

細川 日本は、強いリーダーを育てるような環境にありません。能力のある人をつくっていくという暖かい眼差しがないのです。マスメディアも国民も、褒めるよりも批判ばかりで、足を引っ張ることばかり。これでは強いリーダーが生まれるはずがありません。政界、財界とあらゆる社会で人物が小粒になってきていると言われるのは、こうした日本の風土と無縁ではありません。

(中略)

今の日本に閉塞感があるのは、夢や目標に挑戦せず、できることしかやらない人が増えているためです。魂の抜けてしまった人が多くなったのは、教育が知識の詰め込みばかりで、何かに感動したり、他人の痛みを感じることを学ばせなくなってしまったからです。知識偏重になったのは、企業中心、経済中心の社会になったため、効率ばかり追い求め、一人ひとりの人間にスポットが当たらなくなってしまったことも影響していると思います。(“殿様”にはなれない日本の首相ファーストレディ経験者が語る、その実像)(「あなたとは違うんです」首相の存在感)

首相が、常に批判されるのは当たり前である。だが、一方では、選ばれた以上、首相の周りはそれを着実に実践できるように土台を作ったり、マスコミ対応の防波堤を作らなければなるまい。ところが、どうやら、日本ではそのシステムが壊れているらしい。まじめに働く時代は終わったのかで、僕は工学院大学畑村洋太郎教授の「失敗学のすすめ」からこんな言葉を引用している。
日本の社会でいちばんいけないのは、「出る杭は打たれる」ということ。チャレンジする人を、皆で見せしめにしてしまうのです。そうすると、次にチャレンジする人がいなくなってしまいます。国民の多くがそうした社会を願っていないのに。一部の人がそうした社会を作ろうとしているように見えますね。

事業の失敗は、社会全体で見たときには「許される失敗」、「許すべき失敗」なのです。日本もアメリカなどのように、失敗に学んだ経営者が再チャレンジできる社会に早くならなければいけないと思います。(「失敗学」のすすめ

チャレンジできる社会は、トップがそのチャレンジを許すことが必要である。ところが、批判ばかりして、そのチャレンジをつぶしていくと、誰も画期的なアイデアを出すことができなくなってしまう。そして次第に国力が落ちていく。トップを馬鹿にしている国は、国民すべてが、日本の未来をつぶしていることになる
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