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素人だから言えることもある

しゃべりがうまい人、聞くのがうまい人

テレビが求めるしゃべりがうまい人

日本人はシャイだと言われる。自己紹介も下手だという。だから、かつてのCMは「男は黙ってサッポロビール」と言っていた。男は、おしゃべりより、寡黙な人がいいというのが、昔の常識だった。ところが、今、テレビを見れば、おしゃべりの男ばかりだ。最近の男のあこがれの職業が「お笑いタレント」というのだから、変われば変わるものである。

テレビが、おしゃべりな男を求めているのは、ラジオの頃の習慣が続いているのではないか。突然、黙ってしまったら、間が持たないし、放送事故と思われてしまう。しゃべりでその隙間を埋めているのである。僕は、「なぜ、テレビの男はおばさん化するのか」で、こう書いている

最近のテレビに登場する男たち、とくにワイドショーの「コメンテーター」には、早口でおしゃべりという性格の人間が多い。女性はタレントや女優、お笑い関係が多いが、男のほうはもう、職業も様々だ。学者、弁護士、政治家など固い商売も多いけれど、一般の学者、弁護士、政治家とは完全に違っている。彼らは、テレビという井戸端会議の登場人物になりきっている。テレビ学者、テレビ弁護士、テレビ政治家というテレビ御用達の職業である。

(中略)

彼らの役目は、メインテーマに沿って、あらかじめ作られたストーリーの上で、うなずいてくれる人というわけだ。いわゆる、井戸端会議の場合、必ずメインのテーマを持ってくるおばさんがおり、そのおばさんをよいしょしたり、うなずいたりするおばさんがいる。そのテーマを持ってくるのが、ワイドショーではMCであり、コメンテーターは、そのテーマを膨らます役を持つ。どうしても、男らしい男、無口でぶすっとした男が登場したら、ワイドショーはむちゃくちゃになる。(なぜ、テレビの男はおばさん化するのか)

ワイドショーの視聴者は中年婦人層が多い。コメンテーターは、その視聴者に相槌を打たせるための井戸端会議の登場人物なのだ。

前項「評論家は政治家になるべきではない」でも、こんなことを書いている。

政治家にもテレビに向いている政治家と、テレビに向いていない政治家がいる。テレビに向いている政治家は、短時間に応答できる評論家体質である。テレビ局は、そのようなテレビ政治家を求める。テレビに出演する政治家は知名度が上がり、選挙に有利である。しかも、そのようなテレビ政治家は、評論家やマスコミの意見に振り回され、国民一人一人の意見を無視してしまう結果になりかねない。

一方、テレビに向いていない政治家は、時間をかけてじっくり国民一人一人に耳を傾ける。そのような政治家ほど、テレビに登場しないので、当選が難しくなる。しかも、国会がテレビ政治家ばかりになってしまえば、国会と国民の間にマスコミが介在することになる。

ところで、政治家には弁護士出身が多い。彼らは、法廷でしゃべる職業だからだ。国会や演壇で自分の言葉でしゃべるのが得意である。時折、お笑いタレントが政治家の中に混じることがある。そのまんま東青島幸男横山ノックなど、知名度が高いのはもちろんだが、結局、彼らもまたしゃべるのが商売だからである。そのうち、お笑いタレントを通じて政治家になることが流行ってしまうかもしれない。

聞くのがうまかったモモ

僕が、「評論家は政治家になるべきではない」で、テレビ政治家に対して、批判的なのは、どこかしゃべりのうまさで聞く者をだましているのではないかと思うからである。話をちょっと聞いただけで、勝手に解釈してしまう人、自分の思った通りに相手の気持ちを誘導する人、詐欺まがいの言葉のすり替えが行われているのではないか。

しゃべるのが苦手な相手は、不器用で、なかなか自分の意見をまとめることができない。政治家は相手が言いたいことをくみ取るのではなく、巧みに自分の利益になるように誘導してしまう。だから、この人はきっと頭がいいから、といって不満があってもそれを指摘することができないので、無理矢理納得してしまう。これでは、到底聞くのがうまいとは言えないはずだ。

僕は、ミヒャエル・エンデの「モモ」を思い出す。時間が足りない(異文化文献録) で「モモ」をとりあげた。

「モモ」とはこんな話だ。「モモ」という身寄りの無い女の子は、相手の話を何時間もかけてじっと聞く。すると、不思議なことに相手は自分の本質が、まるで鏡のように見えてくるのだ。そして自分が正しいか正しくないかを、納得して帰る。だから、町の人たちは皆「モモ」に話を聞いてもらいにくる。

だが、ぱったりと町の人がこなくなった。その町に時間貯蓄銀行のセールスマンという灰色服の男たちが増えたためだ。彼らは、「時間の節約」を訴える。「時は金なりです。時間の無駄遣いをしていては、幸福になれません

町の人たちは、せかせかして「時間の貯蓄」を始める。人々は、心のゆとりを求めながら、心のゆとりを失っていく。余暇時間さえも、「時間」がもったいないからといって、「娯楽」を詰めこむだけ詰めこみ忙しなく遊ぶ。また子供たちにも、役に立つ遊びしかさせてもらえない。そして、言われたことだけ嫌々やり、好きなことをしてもいいよと言われると、とまどって何もできない子供に育つ。やがて人々は感情を失い、心が空っぽのせかせか動き回る灰色の男のようになっていく。集められた「時間」は決して人々には返らない。「モモ」が、その「時間」を取り戻すまで。(時間が足りない(異文化文献録) )

「モモ」の行動は、今の政治家では不可能な行為である。ましてや、この忙しい時代には。一方、「時間貯蓄銀行のセールスマン」は現代社会の象徴である。特に、決められた時間内にしゃべるタレントのように。それはまた、コストカットを叫ぶ企業の無駄な会議に似ている。エンデはこういう。
「私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学びなおさなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる」(河合隼雄/ミヒャエル・エンデ著「三つの鏡」朝日新聞社

「時間」には、時計で測れる「外的時間」と心で感じる「内的時間」がある。例えば、嫌いな友達とは短時間でも話すと「内的時間」は長く感じるし、好きな友達とはどんな長時間であっても「内的時間」は短い。「内的時間」には、好き嫌いや興味、やる気、好奇心、生きがいなど心理的なものが影響しているのがよく分かる。たとえ「外的時間」が不足していても、「内的時間」が充実していれば、それほど「時間が足りない」とは感じないはずだ。

問題なのは「内的時間の不足」を「外的時間」の不足と取り違えて、余暇を増やせばよいと単純に考えることだ。「時間が足りない」の自覚症状は、実は人々にやる気や好奇心が消え失せつつあるということなのである。
(時間が足りない(異文化文献録) )

勘違いしていけないのは、「モモ」の行動を無駄な時間を費やしていると捉えることだ。同じ時間に何人の話を聞いたから、効率的だと思うこと自体が間違っている。「モモ」は決して、相手の言葉をさえぎらないし、むしろ発言すらしない。とにかく、相手に喋りたいだけしゃべらせ、そのことが相手自身を納得させる。しゃべっていくうちに、ああ、自分の言いたいことはこうだったのか、これは間違っているかもしれないと思ったり、そうだ、僕言いたいことはこうだったんだと納得したりする。「モモ」は、相手の話を聞いて、こうすればいいなんてことは言わない。ましてや、相手を言いくるめたりしない。本当に大切なのは、相手を納得させるのではなく、相手自身が納得することだからである。

私たちは、もっとうまく喋れればいいと思ってきた。相手を言い負かす方法ばかりを考えてきた。そして、相手はどんなことを考えているかなんて気にも留めてこなかった。「時間貯蓄銀行のセールスマン」のように、せかせか詰め込んできた。結局、そうやって年を取ってきたのだ。

今、高齢者の一人住まいの人たちは、誰かに自分の話を聞いてもらいたいと思っている。聞いてくれれば、それだけで自分が生きていることが正しかったと思いたい。だって、テレビは、いつも、一方的にしゃべってくるだけで、誰も自分の話を聞いてくれないから。


追記

佐々木俊尚氏から次のようなツィッターが

政治家とコメンテーターは求められてる能力がまったく違うはずなのに、だんだん後者に引き寄せられていってしまう問題。/しゃべりがうまい人、聞くのがうまい人 http://j.mp/igBshx
http://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/84762048529051648

最近、zenbackでツィッターが反映しにくいようだ。アクセス数増加で初めて気が付いた。
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